揖斐城

土岐氏の最後

大野郡。揖斐頼雄の城は揖斐北の山に井戸、石垣の崩れがあり、土居も残る。住居は麓の長源寺やしきであった。

土岐氏一族の終焉

初代の揖斐出羽守頼雄は、土岐氏三代で美濃国守護の土岐頼清の子である頼康の弟で、山に城を築き、土岐を改め揖斐と称した。法号は大奥寺祐禅。その子・揖斐左衛門尉詮頼が継いだ。のち土岐頼藝の弟である揖斐五郎光親が享禄(1528-)から天文(1532-)の始め頃まで居城し、のちに古橋、鷲巣に移り没した。

天文十一年(1542)十一月、道三が謀反し、土岐左京大夫頼藝は大桑城を退かせ、揖斐城に追い込まれる。十二月には相羽城にて長屋景興を滅し、さらに進んで揖斐城をも攻撃、城は焼失・陷落して五郎光親は落ち、頼藝は放浪することとなった。十七年(1548)八月、織田信秀は義戦を開かんとする。道三と信秀は和解し、光親は一城を古橋に築き、やがて頼藝も美濃に戻り、やがて法雲寺で葬られた。

その後、堀池備中守が天正(1573-)の始め頃まで居城したか。道三の時代には、越前國朝倉勢と北山杉原にて戦があった。跡を継いだ堀池新之亟(幼名千代壽丸、揖斐三輪明神に天正五年(1577)の棟礼がある)は天正(1573-)始め頃に居城した。稲葉一鐵の聟であったが、元日に攻め寄せられ、江州へと退いた。

稲葉氏から西尾氏、岡田氏へ

天正十一年(1583)、稲葉右京亮貞通は秀吉の不審を蒙り、父一號が曽根より清水へ、貞通は揖斐長源寺の境内に居を移した。前年に本能寺の変があり、美濃の領主は池田信輝父子となったが、稲葉氏は混乱のなか着々と自領を拡大していたためである。天正十八年(1590)、郡上に移った。

関ケ原の戦いの後の慶長五年(1600)十一月、西尾豊後守光教が、曽根から揖斐に移り二万石加増され、総計三万五千石を領した。平地の城に居城し、元和元年(1615、卯)、駿府で没した。のち、元和元年(1615)から西尾豊後守政照が居城し、三万石で領した。実は木下淡路守の子で、光教の外孫にあたる。同九年(1623)揖斐で没したが、乱心により家系は断絶し、弟の主水に五千石が分けられらた。

揖斐廃城の後、美濃国代官の岡田伊勢守善同(始名将監)、以来岡田氏が代々この地に居住した。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)