揖斐城

土岐氏から稲葉氏へ

大野郡。揖斐頼雄の城は揖斐北の山に井戸、石垣の崩れがあり、土居も残る。住居は麓の長源寺やしきであった。

土岐氏から稲葉氏へ

初代の揖斐出羽守頼雄は、土岐氏三代で美濃国守護の土岐頼清の子である頼康の弟で、山に城を築き、土岐を改め揖斐と称した。法号は大奥寺祐禅。その子・揖斐左衛門尉詮頼が継いだ。(詳細は下の西美濃連枝へ)のち土岐頼藝の弟である揖斐五郎光親が享禄(1528-)から天文(1532-)の始め頃まで居城し、のちに古橋、鷲巣に移り没した。

天文十一年(1542)十一月、道三が謀反し、土岐左京大夫頼藝は◎大桑城を退かせ、揖斐城に追い込まれる。十二月には◎相羽城にて長屋景興を滅し、さらに進んで揖斐城をも攻撃、城は焼失・陷落して五郎光親は落ち、頼藝は放浪することとなった。(詳細は下の落城1・2へ)十七年(1548)八月、織田信秀は義戦を開かんとするが、道三と信秀は和解して光親は一城を古橋に築き、やがて頼藝も美濃に戻った。

その後、堀池備中守が天正(1573-)の始め頃まで居城したか。道三の時代には、越前國朝倉勢と北山杉原にて戦があった。跡を継いだ堀池新之亟(幼名千代壽丸、揖斐三輪明神に天正五年(1577)の棟礼がある)は天正(1573-)始め頃に居城した。稲葉一鐵の聟であったが、元日に攻め寄せられ、江州へと退いた。

稲葉氏から西尾氏、岡田氏へ

天正十一年(1583)、稲葉右京亮貞通は秀吉の不審を蒙り、父一號が◎曽根より清水へ、貞通は揖斐長源寺の境内に居を移した。前年に本能寺の変があり、美濃の領主は池田信輝父子となったが、稲葉氏は混乱のなか着々と自領を拡大していたためである。天正十八年(1590)、◎郡上に移った。

関ケ原の戦いの後の慶長五年(1600)十一月、西尾豊後守光教が、◎曽根から揖斐に移り二万石加増され、総計三万五千石を領した。平地の城に居城し、元和元年(1615、卯)、駿府で没した。のち、元和元年(1615)から西尾豊後守政照が居城し、三万石で領した。実は木下淡路守の子で、光教の外孫にあたる。同九年(1623)に揖斐で没したが乱心により家系は断絶して、弟の主水に五千石が分けられらた。

揖斐廃城の後、美濃国代官の岡田伊勢守善同(始名将監)、以来岡田氏が代々この地に居住した。


上の説明について詳しく記す。

西美濃連枝、土岐氏の創築

土岐大膳太夫頼康の弟である土岐三郎頼雄は、康永二年(1343、未)八月、池田郡本郷城の後見としするため初めて揖斐の山の上に一城を築いてここに住み、「揖斐新蔵人」と号した。兄の頼康に従って将軍尊氏公・義詮公父子に仕え、文和・延文の戦いに戦功を挙げた。頼雄の兄を明智次郎頼兼といい、その兄が頼康であって、いずれも土岐頼清の子である。頼兼は、可児郡明智の里に◎城を築いて住んだ。頼康が将軍家の高家衆として美濃・尾張・伊勢の三ヶ国の守護に任じられると、その権威は殊に盛んなものとなり、頼兼と頼雄もまた威勢をほこり、繁栄ぶりは他を圧倒していた。頼兼は「東美濃の連枝」(のち下野守とも)、頼雄は「西美濃の連枝」と称した。頼雄は貞治元年(1362、寅)四月、摂津芥川の城に移り「揖斐出羽守」と改め、その跡には樋口兵庫頭兼親を残し置いて守将とした。永徳元年(1381、酉)二月、芥川から揖斐へ帰城し、入道して祐禅と号した。至徳三年(1386、丙寅)十二月四日没す。

頼雄の子は数多あった。揖斐左衛門尉讃岐守詮頼、二男・兵部少輔光名、三男・治部少輔光詮。次は女子で、今川貞世入道了俊の妻となった。讃岐守詮頼の子もまた多く、長男・志津山太郎頼国、二男・土岐左馬助頼且、三男・揖斐野村三郎河内守頼三、四男・揖斐四郎左近大夫友雄、五男・左近将監頼友といった。四男の左近大夫友雄が家督を受け継ぎ、当城の城主となった。友雄の子・長男太郎摂津守友行は、池田郡◎西の保の城主であった。二男を左近大夫基春といい、応永十三年(1406、戌)九月に生まれたという。家督を相続して、揖斐の城主となった。基春の子を周防守基信といい、続いて当城に住んだ。

基信の代に至って男子がなかったため、美濃国守護(屋形)の美濃守政房の五男・五郎光親を養子とし家督を譲った。政房の長男を盛頼といい、二男・頼芸、三男・治頼、四男・光尚、五男・光親である。光親は永正五年(1508、戊辰)三月二日生まれ、大永二年(1522、壬午)五月、揖斐基信の家の養子となった。しかし、この光親は生まれつき利発で智謀や軍略にも優れ、仁義を備えた勇士であったうえ、父・政房は当国の屋形であり、兄の頼芸もまた国主であったことからその威勢は凄まじく、諸家も尊敬したほどであった。光親はのちに周防守と号し、天正七年(1579、卯)八月二日没した。七十二歳。近代の説に、光親は天正八年(1580)十二月大晦日に稲葉良通が◎清水より攻め寄せて、翌九年(1581)正月元日に城を焼き落としたというが誤りであり、正しくは、光親の子の五郎光就の代のことである。さて光親の代に揖斐の麓の三輪村に要害を構え、重臣の堀池備中守氏兼や大西源吾を守護代として、自らは大桑へ出仕した。

古来、大野郡に名城はないといわれるが、揖斐の城はその頃名を馳せた堅城であって、山上の本丸天守台は三十間四方(一辺が50mほど)、二の丸台は二十四間四方(一辺が44mほど)で、それぞれの土の形が残っている。桂を大手、三輪を搦手とし、東・西・北の三方は山が続き、その間に侍屋敷が建っていた。南の三輪村の表には杭瀬川が流れる。

落城 1 碁の遺恨

光親の子・五郎先就が家督を受け継いで当城主となった。光親は大守(守護)頼芸の弟であり、当国の屋形の一族であるため、光就もまた大守の甥にあたり、その威勢は強く、短気ではあったが武勇に優れ豪傑であった。

そうしたところ、天文十一年(1542)、屋形・頼芸は逆臣の道三のために落ちていった。しかし道三の嫡子義龍は頼芸の落とし胤であることが明白であり、道三は主君を追い出したといえ、義龍を以って大守とすることを誓約し、光親はじめ当国の諸士はこれに従ったのだった。しかしのちに道三に実子ができると、そちらへ家督を譲り惣領職にしようと欲して、義龍を遠ざける振舞いがあった。そのため、揖斐光親や一族、外様の面々は憤り、義龍を盛り立てて弘治二年(1556)秋、ついに道三を攻め殺して義龍を大守とし、光親がこれを補佐したのだった。そうして義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長によって当国を奪われたのだった。この時、光親は稲葉山で討死したとの噂もあったが、定かでない。これより、揖斐も織田家に降参して、引き続き揖斐に在住した。

さて、揖斐城落城についてだが、その頃、池田郡◎本郷の城主に国枝大和守正則(安藤氏の一族・国枝大和守藤原守房の末裔)という者がいた。代々本郷村の城主であり、また本郷の中に良徳寺という禅寺があった。当時、ここに稲葉良通の父・臨仁定門が隠居していたため、正則や良通が時折参詣していた。揖斐光就も時々加わっていたが、ある日、光就・良通・正則が良徳寺に集まって碁会を催したところ、光就と正則が碁の勝負をめぐって口論となった。良通が仲裁して双方をなだめ、ようやく怒りを晴らしてその日の集まりは終わったが、光就の言い分の方が実は正しいものであった。良通は正則の舅であったため、非を曲げて無礼に扱ったふるまいをしたのだった。これによって光就はたいそう憤り、恨みを持つようになったのだった。

天正六年(1578、寅)八月十八日のことであったが、正則は大野◎谷汲の観音へ参詣のため、主従わずかで◎本郷を出発し、杭瀬川を越えて道中の気晴らしに四方の景色を遊覧して向かっていた。光就はこのことを聞いて「日頃の憤りを散らすべき時いたれり」と大いに喜び、郎党に命じて正則の来る道筋の名礼の崎の広野に伏兵を隠し置き、揖斐城の裏手にて待ち受けた。そうとも知らず、その日の巳の刻(午前十時)、正則がわずかの士卒を召し連れて来た。そこへ光就が「すわ、かかれ!」と大声を上げ、「過ぎし頃、碁会の遺恨、良通が不道の扱い、その憤りを晴らさんため、早くよりここに相待ちたり。逃がすまじ!」と呼ばわった。正則は大いに驚いたが、覚えのある事であったため心を決め、少しも恐れず、郎党らに命じて斬りかかった。揖斐勢も槍や刀を打ち振り血戦を展開したが、国枝勢もここを最期と戦った。ちょうどその時、木陰より揖斐の伏兵五十余人が叫びつつ突きかかったため、国枝も仰天した。「これまでなり」と心をきわめ太刀を取り自害しようとしたところ、揖斐の郎党・大西太郎兵衛が斬りかかり、ついにその首を取ったのだった。

正則が討たれ、残る郎党らも七転八倒の働きをして、ことごとく討死したのだった。その輩——国枝八郎守則(討手:花木藤五郎)、上田玄蕃常房(小野新六郎)、遠藤佐助(林久次郎親綱)、早崎主馬(松井内記)、早崎三次郎(横屋平兵衛・堀池内蔵)、高橋利左衛門義昌(山岸十次郎・花木藤五郎)、宇佐美兵太夫(宮城弥六)、中山主水員氏(松岡幾之丞)、中山次郎員俊(土屋藤三郎家重)、久保田才二郎(揖斐勝之丞)、国枝玄休坊(佐藤金兵衛)、萩原刑部丞(野村十左衛門)、荻原友之丞(玉木久四郎)が討死した。そのほか士卒はみな散り散りに敗走した。揖斐側の討死は、細野源四郎、松本主馬春利、桂藤兵衛とその弟総兵衛、田中勘兵衛、服部杢左衛門、太田繁之助、兼田藤兵衛、小森五郎兵衛らであった。しかしながら光就は大いに喜び、兵士に下知して早々と城中へ引き揚げた。本郷側の十三の輩の死骸をかき集め、名礼・結城村のあたりの土中に埋め、十三ヶ所に葬った。その形は今に残り、谷汲道の脇の十三塚というのがこれである。

落城 2 元旦の暁

さて国枝の舅である◎清水の城主・稲葉伊予守良通のもとへ、名礼の戦いで命を免れた者が一、二人逃げ込んで報せた。良通は大いに驚き「現在の婿を討たしめて、打ち捨ておく様なし。速やかに馳せつけ、敵光就を討ち取らん」と、すぐさま士卒に命じ◎清水を出て、戦場目指して馳せていたところ、深坂の峠にて国枝の家来がまた一人、二人と逃れ来て、「主人はすでに討たれて候。揖斐ははや兵士をまとめ、城中へ引き入りたり」と申し上げた。良通は無念骨髄に徹し、いたずらに揖斐の方をにらみつけ歯がみしたが、光就はすでに居城へ引き揚げてしまったので、力なく馬を返して◎清水へ帰っていった。光就はすこぶる勇剛の士であり、容易に誅殺しがたい。これによって機会を窺い、油断を見定めて不意に押し寄せようと月日を送っていた。天正八年(1580)に至り、十二月下旬に及び、◎清水において「良通急病なり」と噂を流したのだった。これによって家中、郎党らが騒動する様子で、近隣を行き交う人々は引きも切らず。揖斐においては稲葉の動向を気懸かりに思っていたところであったため、これを聞いて真実と思い大いに喜び、油断していたのだった。

十二月の大晦日となり、揖斐城では早春元旦の儀式などを準備していたが、明ければ天正九年(1581、巳)の正月元日であった。良通は、手はず通り士卒に指示して、大晦日の夜から出陣の用意をし、兵糧なども十分にして、その夜の丑三つ過ぎの頃(午前2:30頃)に清水を出陣して、揖斐坂(揖斐坂というのは、谷汲道であって、白石から深坂へ越える坂である)のあたりから上り、山続きに通って、城際まで押し詰めた。その頃、揖斐の城中では、元旦新玉(あらたま:新しい魂)の儀式をして、知らずにいた。やがて寅の一刻(午前四時頃)に至り、城の前後から一斉に鬨をあげて攻め立てた。

城中大いに騒ぎ立ち、「こは敵に不意を討たれたり。各々持ち口に至り防ぎ候へ」と上を下へとあわてふためいていたところ、良通は指示して多くの松明を灯し連ね、城の四方の山上の樹木へ一斉に火をかけた。たちまち猛火が八方へ燃え上がり、煙の下から寄せ手が矢継ぎ早に攻め立てられ、堀池備中守、その子・千代寿丸、大西源吾、花木藤五郎以下、思いのまま戦って討死した。城将・光就も、既に討死(している)、と馳せ出たのを、士卒ら制して「ひとまず城を落ちて逃れたまえ」と勧めた。光就も仕方なく城の西より桂の郷へ逃れ出て、山岸勘解由左衛門光信の隠居所に落ちていった。そのとき東南の風が荒く吹き込み、山上の猛火がたちまち桂の郷へ焼き広がったので、そのあたりは残らず一片の煙となって、跡形なく焼き尽くされた。この時、堀池父子・宇佐美平馬・稲川治左衛門・大西・佐藤・花木・畑野ら多くの勇士が討死した。稲葉の家臣に加納悦右衛門という者がおり、抜群の武功を立てたとか。さて光就は桂を出て、安八郡大垣へ落ち、氏家左京亮直元(のち内膳正という)を頼って蟄居した。その後、氏家の移封にともない、桑名へ赴き、文禄元年(1592、壬辰)に美濃国石津郡駒野村にて没した。五十六歳。

さて稲葉良通は、光就を討ち取ることはできなかったものの、揖斐の一城を焼き落として大いに喜び、清水へ帰っていった。この時、揖斐山上の城は断絶した。天正九年(1581)正月元日のこと、未明に落城したのだった。これ故に、揖斐における俗説に「朝寝すると城落ちる」とあり、今でも揖斐では元旦の挨拶を早朝未明より行う。さてまた良通は、これより揖斐の山の下、三輪村の要害に、嫡子・右京亮を入れ置いて守らせた。しかし良通は、婿の怨みとして揖斐光就を追い出し、わずかに憤りを晴らしたものの、三代恩を受けた主君の一族を攻め落とした。勇士の本意にあらずと思ったか、その年の秋、清水の北の方にある山の麓の長良村の釣日寺にて出家して一鐵斎と号した。(一説に、岐阜長良の崇福寺という)

さて、光就が落ちた際、子が三人いた。長男を栄千代丸という。この時より近江坂本に逃れ、明智の養育にて成長して、のちに江戸将軍に仕えたという。二男は早世し、三番目は女子であった。成長したのち他家へ嫁いだ。光就の妻は、この時、尼となって横倉寺に入ったという。なお徳山五兵衛に嫁いだとも聞く。さてこの度の放火によって、桂の郷はみな類焼して鎮守の八幡宮も焼失した。本地は無事であったという。のちに同社へ明智光秀の霊を祀った。さて、周防守基信の妾腹の子に、揖斐六郎太夫基行という者がいた。桂の郷の戸□(虫損)渡という所に住んでいたが、弘治元年(1555、卯)八月に病死した。その子・六郎太夫貞行は、山岸勘解由左衛門の婿となり、のちに伊勢の近士の家へ養子に行ったという。晩年、明智に仕えて近士となり、四手衆の一人となった。天正十年(1582)六月二日、京都本能寺において、湯浅甚助友俊と組み合い、刺し違えて死んだ。貞行の子・揖斐造酒三郎(のちに作之丞貞次といい、母は山本対馬守和之入道仙入斎の娘)は、明智の山崎の合戦前日に、光秀の遠謀に従い美濃へ落ち延び、のちに江戸将軍に仕えて子孫は関東にいる。

康永元年(1342、巳)年三月、揖斐出羽守頼雄が初めて当城を築いて居住して以来、揖斐氏が代々ここに住み、二百四十ヶ年の星霜を経て、天正九年(1581)正月元日、ついに落城した。当城は、山上に本丸があって、山下の三輪村には要害があり、侍屋敷が立ち並んでいた。山上の城が落ちた後は、山下の要害だけとなった。のちにこれを城に改築し、櫓・塀・土居・堀などを修復して、見事な一城となった。なお、この揖斐というのは荘名であって、たいへん広い。城のある所は揖斐の荘三輪村という。しかし揖斐の本城がある所であるため三輪とはいわず、ただ揖斐と号す。揖斐の荘の村々の数は多い。三輪村をはじめとして、桂・南方・北方・房島・仁坂・中津・原野村などである。のちに、この揖斐は岡田伊勢守の陣屋となった。

稲葉父子が攻寄せる

大野郡揖斐というのは庄名であって、その内の村々は多い。しかしながら三輪の山上に城を築いて土岐出羽守頼雄が拠り、揖斐と号して代々住んだことから、三輪村のことを「揖斐」と呼んだのであった。城は山上にあってその下に曲輪があった。その曲輪は、すなわち三輪村の地である。

そうしたところ、先の「落城2 元旦の暁」で述べたように、天正九年(1581)正月元日、当城から十八町隔てた同郡◎清水の城主である稲葉伊予守が攻め寄せ、山上に放火して城を焼き落とした。これにより当城は破却されるに至った。しかしながら、山下の曲輪はそのまま残り、櫓・塀・堀は極めて堅固に造られ究極の要害であったため、良通は捨てがたく思ったのだろうか、三輪の要害をあれこれ修復し、嫡子・右京亮貞通を守将として入れ置き、自らは清水を隠居城として住んだ。なお、貞通はそれまで安八郡◎曽根の城に住んでいた。この揖斐の要害は三輪村にあるといっても、ただ揖斐とのみいい伝えられ、一城の名を立てたのであった。

さてこの頃、稲葉は父子四人であり、清水、揖斐ならびに安八郡曽根、また郷渡の四ヶ城を掛け持ちしていたという。そうした折、天正十年(1582)六月二日、信長公が明智によって京都本能寺にて自害したのち、羽柴秀吉が中国地方より帰って、同十日、摂津尼崎において織田家の諸将を集めて弔い合戦の評議を行った。稲葉父子もこれに馳せ加わろうと、美濃を発ち近江まで来たが、安土・◎佐和山のあたりにて、明智の家臣で一族の左馬助光春や荒木山城守行重らに追い散らされ、通行できなかった。そうして、むなしくも居城に退き病気と称して出ていかなかったのだった。山崎合戦において稲葉が洩れているのはこのためである。これによって秀吉の不興を買い、しばらく不和となった。

城主の交替

その後、秀吉の命により、天正十八年(1590)の秋、稲葉父子はともに◎郡上八幡の城に移っていった。その跡揖斐の城へは、石川備中守康行が秀吉に仕えて住んだ。この時、本丸を修復した。またこの時より◎清水の城は断絶した。なお◎曽根の城へは西尾豊後守光教が入った。なお、一説には◎清水へ西尾の弟・修理亮光国が住んだという。

その後、揖斐の城主・石川備中守は、尾張犬山へ移り、岐阜の織田中納言秀信に属して関ヶ原の乱には石田方に与して敗軍となった。かわって当城へは、慶長五年(1600、子)の十月十日より、西尾豊後守光教が江戸将軍に従い、関ヶ原の合戦に忠節があったことにより、三万石を領して揖斐を賜り、◎曽根から移った。

光教の弟・光国は石田方に与した罪によって、◎清水を没収されて豊後守(光教)へお預けとなり、揖斐に蟄居した。光教は揖斐に住み、三万石の領分にて城を修復して二の丸を築き、西尾父子は二十余年住んだ。光教は元和元年(1615、卯)七月、駿府にて没す。嫡子はあったが幼少であったため、秀忠公の命により木下淡路守利当の嫡子を養子として家督を相続させた。のち豊後守といった。

しかしその後、江戸にいた内室(正室)の讒言によって跡目相続の議論が起こり、家中が思い思いに動き政事が乱れたため、ついに家名断絶に至った。この頃、揖斐の町外れに曲輪を構え、堀などを掘り進めていたが、これも完成しないうちに断絶に至ったという。この堀などを掘ったことで内室の讒言になったともいう。揖斐の町外れに堀の跡が今も残るのはそのためである。

岡田代官

さてそれからは公領となり、寛永九年(1632)まで岡田伊勢守善同が支配した。もっとも元和九年(1623)に入部したという。

そもそもこの岡田氏というのは、清和天皇の末裔である治部輔陸奥守満政(満仲の弟)より四代の孫にあたる佐渡前司重宗、そのさらに三代の孫である尾張国浦野の住人・信濃守重遠の嫡子で、同国河辺の住人山田先生重直より四代の嫡流にあたる家で、元暦(1184・1185)の頃、木曽義仲に仕えて宇治・瀬田の口を固め、承久の乱(1221)には院方に味方してその名を知られた山田次郎重忠の十二代の後裔で、尾張国知多郡岡田村出身の岡田助右衛門直教という者であった。織田備後守秀信に仕え、天文(1532-1555)の頃、今川義元との三河国小豆坂の合戦にて、七本槍の武名があった者である。

その嫡子を平馬允、のちに長門守重善という。織田信長の命によって信雄の老臣となり、尾張鳴海の荘、星崎の城主となって十八万石を領したという。そうしたところ天正十一年(1583、未)、信雄の臣で滝川三郎兵衛という者が、羽柴秀吉の反間(離間工作)にはめられて疑心暗鬼に陥り、忠臣の岡田長門守に謀反の心があると主君に訴え出た。信雄はもとより愚将であったため、滝川の言葉を信じて長門守を討とうと企て、伊勢長島の城へ呼び寄せた。同年三月二十五日、長門守は何の疑いもなく登城したが、その時、信雄の家臣の飯田半兵衛・森勘解由・滝川三郎兵衛の三人が斬りかかり、しばらく戦った末、長門守は討死したのだった。惜しむべきことである。重善が無実でありながら非業の死を遂げたのは、秀吉の奸計であったという。

長門守の弟・庄五郎善同、ならびに一族の岡田宇右衛門・酒井下総守・赤川総右衛門・角倉与左衛門・天野五左衛門・北野彦四郎・山口半右衛門・下方嘉兵衛らは、星崎の城に立てこもった。翌天正十二年(1584、申)三月十七日、三河刈谷の城主で水野和泉守忠重の嫡子である藤十郎勝成(のち日向守)が攻めかかり落城した。

その後、庄五郎善同は難を逃れ、加藤清正に属して朝鮮陣へ向かった。そうしてのち、江戸将軍家に仕え、関ヶ原の陣にお供した。時に慶長六年(1601、辛巳)六月九日、家康公より改めて五千石を賜り、美濃可児郡姫の郷に移り、美濃郡代として初めて役目を命じられた。寛永六年(1629、丑)年九月十三日、伊勢守に任ぜられ、伊勢・筑後両国の郡代を兼任するよう仰せつけられた。同八年(1631)正月二十四日、姫の郷から大野郡揖斐へと領地替えとなり、八十石を加えて五千八十石となった。これより揖斐は、代々岡田家の知行となった。同年五月二十九日、京都柳の田子にて死去した。法名を善同院。

岡田将監がはじめ当国美濃の郡代であった頃、支配の川や用水などの取り扱いが見事であったため、万民がともに喜んだことから、後年「井水明神」と崇められた。また武儀郡立花村のあたりに大きな川があり、田畑も道路もことごとく湿地となり耕作しがたく、地元民らはたいへん困窮していた。一方で、川下の村々は、夏の日には水が乏しくなり干ばつしていた。そこで岡田将監は、その災いを取り除くため両側に大堤を築き、要害のためとして小さな並木を植えたのだった。この並木はその当時は無益のようであったが、後年大木に成長し、用木となった。さらに湿地を開拓して川の水を二つに分け、昼夜の番水として下の郷々が取り分けて用水とした。その取り仕切りがたいへん見事であったため、領民は大いに喜びありがたく思い、その祝賀として、ある老人が一首の狂歌を詠み郡代屋敷の門に立てたのだった。

用水を 昼夜に分けし御さばきは 岡田じけなき 下の喜び

領民がかたじけない思いを込めて祝ったとみえる。また番水争いにおいても、今なお「将監裁き」という古例が残っている。さて並木の松は無益であろうと言いふらす者たちがいたため、岡田は一首の歌を残した。

植ゑおくも 我が爲なりし竝木松 末の世思ふ 里人のため

はたして今に至り、ことごとく用木となった。その堤は頑丈であり、世間ではこれを「岡田堤」、また「将監堤」ともいう。善同の子・豊前守善政の代に二千石を加増され、七千石となり、代々関東の旗本として仕え、揖斐の地頭となった。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

揖斐郡揖斐川町
種別