伝馬町の東、精進川を渡す橋である。今は「さんだが橋」とも呼ぶ。
むかし、この場所に裁断所があって政務を行ったため名付くとも、あるいは「さうづが橋」が転じて「さんだ」となったとも言われている。精進川は、かの夏越の祓を行うことに由来するというが、そのようなこともあるのだろう。
また、『日本霊異記』および舊本の『今昔物語』に載る尾張宿禰久玖利は、聖武天皇の御代に、中島郡の大領(郡司の長官)であったが、その妻は愛智郡片蕝里の出生で、道場法師の孫にあたる。彼女は夫に従順で、また機織りに秀で、すばらしい絹を織り、夫に着せていた。
ときの國司の若桜部某は、その絹の美しさを見て大領(夫)に所望し、借りたまま返さなかった。その妻が夫に向かい、「その衣を惜しと思い給うか」と問うと、久玖利は、「甚だ惜し」と答えた。「さならば我取り返さん」と言い、國司の館に行き、強く「衣を返されよ」と乞いた。國司は怒り、下人に命じて追い出そうとしたが女は動かず。しまいに國司が座っている床(座所)を両手で持ち上げ、國司を乗せながら門の外へ持ち出し、返すよう迫ったので、國司は恐怖して衣を返した。
さて大領の父母は、國司が怒り怨むことを恐れて、その妻を離別させたため、女は故郷に帰っていった。ある時、女が草津川で衣を洗っていたところ、商人たちが、大船に物を積んで漕ぎ行く際、この女を見て嘲弄した。女は黙っていたが、あまりに煩わしかったので、「我を犯さんとするならば、面打たん」と言った。商人は怒って女を打とうとした。女は船にとりつき、水から上へ半町(約55m)ほど引き揚げてしまった。船主は仕方なく、辺りの人を雇い、荷物をおろし船を水に浮かべ、荷を乗せ去ろうとした。
その時、女、「礼なきが故にこのようにしたのを、なぜに雇われ助くるぞ」と言うや、今度はその船を陸地へ一町(約109m)ほど引き揚げて置いてしまった。舟の中の人々はこぞって嘆き、恐れいって詫びたため、女の心は和らぎ、許して舟を押し戻し、水に浮べたのだった。その女の力を試そうと、この船を五百人で押させてみたが、ついに動かなかったとみえる。
さて、草津(さうづ)川とあるが、僧都(そうづ)川・三途(さうづ)川などの音訓は草津川に通じるので、その図をここに掲げて子どもたちの見ものに供する次第である。
また、欄干の擬宝珠に、漢文と仮名文字の銘が彫り付けられている。その銘によれば、
熱田の宮裁談橋。施主(檀那)の意図は次の通り。堀尾金助公、去る天正十八年(1590)六月十八日。相州小田原陣中において逝去された。その法名を逸岩世俊禪定門と号す。慈母が哀しみのあまりこの橋を架け替え(修造)させ、以って三十三年忌のあまねく供養の儀に充てる。
と。この銘に依りて見れば、「裁談橋」とも書いたのだろうか。また、
てんしやう十八ねん二月十八日におだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、 又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、 いま此はしをかける事、 はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人念佛申したまへや、三十三年のくやうなり。
と、このように仮名で彫り付け、不学の人の頼りとする老母の心中、これを見るにつけても深く哀れである。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)