織田信長の頃の法泉寺の住職を安田空明という。伊勢長嶋一揆(1571-4)が蜂起したとき、空明は本願寺に加担して一方の将として信長と戦った。しかし石山本願寺が大阪を退き紀州鷺ノ森に移る(1580)に及んで、空明は多良の高木家の先祖である高木彦右衛門のもとに身を寄せ、生まれた地の香取村へ帰った。長久手合戦(1584)のとき、空明は徳川家康に取り立てられ、香取で三百石、近郷で三千石の領地を与えられたが、天正八年(1580)に織田常信の国替に際して土地を召し上げられた。
その後、家康が美濃路を下向する折に、しばしば空明の安否を尋ねることがあった。しかしその時には既に空明は没し、その子は僅かに寺屋敷一個を領して貧しく生活していた。これを聞いた家康は大久保石見守長安に命じ、香取村一円を住職の所領とするよう申し渡した。
ところが住職は、香取村は桑名領で本田中務秘蔵の地であるとして他の地を願い出た。願いは聞き届けられ、多芸郡口ヶ島で百石が与えられた。それ以来、明治維新(1868)に至るまで法泉寺領として口ヶ島村に百石の地があった。
参考:『養老郡志』