※正確な場所は不明

備中岡田藩領の脛永村の土場。江戸時代初期から幾艘かの荷船があり、船乗もかなりいた事は知られているが、その数は不承である。明治期の船舶数は、『明治一四年町村略誌』によると、二十石積船四間船十艘、三間船三艘の計十三艘あった。

年貢米の積出と川下げ

備中岡田藩領の沓井・脛永両村を管轄する下代官・野原藤左衛門は藩の指示を受け、毎年のように年貢米を江戸へ舟で輸送していた。江戸への廻米は脛永村から積出し、桑名問屋まで川下げし、問屋の手で江戸へ廻送してもらうことが多かった。

舟賃の変動

川舟賃は、中之宮(現巣南町)より桑名までは、寛永七年ごろは米百石に一石で、桑名から江戸までの海上舟賃は百石に十二石ほどで、合わせて金にして五両近くかかった。

その後川舟賃は、値上げされ、嘉永三年では桑名から江戸へは米百石に付金七両弐分であった。明和三年の沓井村津出シ船賃覚から船(五十俵積二十石船)一艘の川舟賃が、銭八四〇文前後となっているのは、当時は川口大普請のため二割増と定められていたためで、桑名までの一艘の川舟賃が銭七百文であったことが分かる。

天保期の紛争事例(赤坂宿差銭の訴訟)

『大垣藩地方雑記』によれば、天保十年(1839)に山洞村の増蔵が百姓の片手間に杭瀬川通を船で年貢米・払米や商人荷物等を積下げ渡世をしていたところ、赤坂宿より差銭(通行銭)を取立てようとした。増蔵はこれを訴え、江戸表道中奉行・深谷遠江守の裁断を迎いだ。裁断の結果、赤坂宿の差銭取立は認められず、赤坂宿御叱りとなった。

参考:『池田町史 通史編』(岐阜県揖斐郡池田町、昭和五十三年)439、440頁

揖斐郡揖斐川町
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