大草村にある。曹洞宗大源派、遠江国森村大洞院の末寺。六叢山福嚴寺。
備中船木の僧・性印和尚は霊岳和尚に従い遠江国に趣いたが、文安二年(1445、乙丑)、帰路の途上で当国野口村に至り、茅庵を結んで寓居した。隣村の大草の城主・西尾式部道永は、法印の道徳を深く信じ、一寺を創建して住持とし、寶(宝)積寺と名付けた。遠江国周智郡の盛禅和尚は、初め霊岳和尚に従って出家したが、霊岳は臨終に際し盛禅を呼び、「我が附法の弟子性印は尾張にあり、汝、行きて師とすべし」と遺言を残した。そのため盛禅は寶積寺に赴き、朝夕参禅した。文明二年(1470、庚寅)十二月二十八日、性印が遷化したのちも寶積寺に住んだ。
その地は湫隘(しゅうあい:低く湿って狭い)にして、衆徒を収め難かった。西尾道永は力を尽くして、大草山の西北の地に禅刹を広く整備し、改めて大叢山福嚴寺と名付け、性印を開山として盛禅を二世とした。
この盛禅は道徳が特に優れていた。その頃、同郡関田村に篠城宗八という者があり、強壮勇悍にして盗賊を業としていた。俗に曾呂利(そろり)と呼ぶ。その一味は多く、追い剝ぎを働き、時に人を殺すこともあった。しかし延徳元年(1489)の夏、疫病に罹って死んだ。その徒党の者どもが盛禅和尚に棺を挙げさせようとした時、青天はにわかに曇り、漆のような黒雲が立ち込め、雷雨は車軸を流し、恐怖せぬ者はなかった。
和尚は炬(松明)を取り一圓相を打ち
「三世諸仏、歴代の祖師、天下老和もまたこの如し。汝も我もまた同様なり。」
棺を三度叩いて曰く、
「翡翠(かわせみ)踏み飜す荷葉(かよう)の雨。鷺鶿(ろじ)衝き破る竹林の烟(けむり)。」
そうして、棺上に穏坐して動かなかった。
その時、空中に声があった。
「極重の悪は天罰せねばならぬ。だが禅師は許さず我は空しく去る。」
と、大笑一声あり、天はもとのように晴れた。見聞した者で嘆異せぬ者はなかったと『日域洞上傳』にある。性印・盛禪の傳は『傳燈録』にもある。
やがて天正(1573-)の初め、小牧合戦の兵火に罹って退廃したが、同十四年(1586)周省和尚が茅舍を建ててから、やや旧観を取り戻した。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)