宗祇水

郡上郡山田庄の宮瀬川のほとりに泉が有る。

紅葉はの なかるゝ龍田白雲の 花のみよしの 思ひ忘るな
紅葉の葉が流れていくよ龍田川、白雲のように桜が咲き誇る吉野、その思いを忘れるな

という東野州の歌によって「白雲水」と名が付いた。東野州常緑は宗祇に『古今』を伝授して、ここまで送って来て、この和歌を詠んで与えたため、「宗祇水」という。

元文三年(1738)、金森兵部少輔臺近(とらちか)の領地であった為、永く世に伝えるべく公卿や殿上人へ願いでて、その言の葉を多く集めて世に伝えた。

言の葉の 道に結ひし契りをも つきぬ泉に 残す跡哉
烏丸従三位光栄(寛永十九年 [1642年] 〜 宝永六年 [1709年])
和歌の道を通じて深く結んだ契りも、(身が尽きて)死んであの世(黄泉=あの世)に行ったのち、私が生きた跡となるだろう
幾千世と 傳へん道の末遠く たえせす爰に すめる泉そ
飛鳥井中納言雅香 幾千代と伝える道の末は遠く絶えることなく。ここの澄んだ泉のように。
敷島の 道を傳へて名も爰に 残る泉の 水はたえしな
柳原中納言光綱 和歌の道を伝え、その名と共にここに永遠に残る泉の水は絶えることがない
古き世の 跡したふらし宮瀬川 清き泉の 名をも残して
外山従二位光和 古き世の跡を慕っているのだろう、宮瀬川の清らかな泉の名を残して
難波津の 流れを爰に汲む水の 絶えぬや深き 教へ成るらん
冷泉為村 和歌の源流の流れがここに、水が絶えぬことは和歌の深い教えを表しているのだろうか。
なお、難波津は、大坂の渡来人が上陸する地点のことだが、それを詠んだ歌が手習いの歌として詠まれたことから、和歌の道という意味も持つようになった。
幾千年 傳へん道のしるへとや 爰に泉の 水も絶えせぬ
中院左中将通枝 幾千年先も伝えてゆく道標として、ここに湧く泉の水も途絶えることはない
流れをや 世々に傳へん名にしおふ 泉にそへて 絶えぬことの葉
金森臺近(とらちか) 流れを世々に伝える、その名にふさわしい泉に添える絶えることなく紡がれる和歌とともに。

ちなみに臺近は、宝暦四年(1754)に郡上一揆が起き、改易に追い込まれている。延享四年(1747)老中職へ繋がる奏者番に任命されるが、出費が激しいものであった。奏者番は、将軍に謁見する案内役、献上物の管理など礼法、文化的な知識が必要であり、臺近は適任とされたのである。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)