赤津村にあり。曹洞宗、三淵村正眼寺の末寺。山號は大龍山。應永七年(庚辰、1400)天鷹祖祐和尚が創建した。和尚は越前の永平寺七世の住職であるが、当国下津の正眼寺の住僧だった時、退隱の志があり、山水幽僻の地を探し、白坂(赤津の内)の東に高松山毘沙門堂の古刹があった地を見つけ、一宇の草庵を結び、毘沙門山高松寺と名付けたが、翌年野火に焼け、またその地も狭く、衆を容れるには便が悪く、そのうえ瀬戸・赤津の村民がしきりに請待するので、今の所に移った。さて祖祐和尚が開堂した日、大きな龍が形を現し、瑞雲を起こして禎祥(ていしょう-吉兆)を示したので、今の山號・寺號とした。
本堂の前にあって、両眼池ともかく。二代天先和尚のとき、青衣の神人が来て、「我はこの山の近くに住む者であるが、この山の形は龍がうずくまるようだが、両眼が無いことを患う。師の徳を以って山眼を開きなされば、神々集まり、永く国民は安らかだろうと、いい終わってどこへともなく消え失せた。和尚はその言に従い、應永二十五年(1418)戊戌七月七日、二つの池を掘って龍の両眼に擬せた。かの神人は三河の猿投大明神であろうと時の人はいったという。
惣門の外、西南の水際にある。高さ八尺余(約2.4m)、囲二丈程(約3.6m)の岩である。昔、この山の霊神は、恐しい形を現し、しばしば人民を悩ましたので、人々は鬼と呼び恐れたが、天鷹和尚開創の後は、形を隠して現れた事なく、寺衆を擁護し、若衆徒が規則に違い法令を犯す者があれば、怪形を現らし驚かせたという。これを見た僧徒の、多くは死んだ。天先和尚の時、かの鬼も時々現れ、怒った面色で、山門の辺りを徘徊した。ある夜、和尚が龍眼池のあたりの石の上に座禅していたら、かの鬼が痩せ枯れた僧の形となって静座している側に来て、「我は山霊の鬼である。長年山の中で隠れて常に飢餓に苦しみ、ようやく姦僧があればそれを採り殺して、その肉で暫く飢えをしのぐ。願わくは和尚廣大の法力で、我の非常の幽苦を救いなされ」と、熱心に頼めば、和尚は許諾して、般若性空の理を説示し、また菩薩戒脈を授け与えられた。山鬼は終に得脱し、今後は永く当寺の鎭護になると約束した。和尚は性空上座と名付け、以後僧俗を悩ます事無くなれば、浄飯を炊いて汝の飢えを救おうと言われたので、上座は側の岩上にうづくまり、頭をたれて悲泣して感謝したと見えたが、どこへともなく消え失せた。これは應永二十五年(戊戌、1418)四月二十五日の夜の事で、それからのち毎月二十五日に、火を改め浄饌(供え物)を整え、住持は衆僧を率い、読経・焚香し、饌をこの石の上に投げ打つ事が例式となり、今に至るまで退転なし。
俗に「性空石」と名付いたのは、この謂われである。それより当寺に盜賊が入り、財宝を奪う事があれば、精神は平常でなく、只門内をめぐり廻って、外へ出る事が出来ず。過を悔い、盗んだ品をさゝげて罪を謝れば、やう〳〵出で去る事が出来たという。これはひとえに性空上座の守護によるという。今も堂中は夜も戸をさゝずという。
本堂の側にある。長禄二年(戊寅、1458)八月、天先和尚が退隱し、法嗣の眞翁宗廉和尚が住持となって法を説く。應仁二年(戊子、1468)十一月晦日、殿前の池に突然、小龍が現れたので、和尚は法力を示し、かの小龍を小殿に秘封して、永く当山の護法善神とあがめ、みだりに開く事をゆるさず、ただ師資伝法の部屋で住持が一たび小池を見たのみ。その小池を龍天水と名付ける。水は浅いが、いつも減る事がない。希代の霊泉である。
天正10年(1582)8月に織田信勝は雲興寺に対して国中渡し諸役所に負担する役の免除を認めた。尾張国中の渡しには役所(関所)が設置されていたが、雲興寺は渡し諸役所への船や人足の供出を免除されていた。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)