王滝城、別名崩越城
永正元年(1504)七月、飛騨国の三木修理亮重頼は兵三百余を率いて加子母から白須峠を越え木曽谷へ進軍し、一一日に王滝村まで侵入した。上島砦の上野肥後が木曽義元に急報。義元は谷中の武士に来援を求め、まず手兵二百三十余を率いて、折からの夜の大雨を冒して進発した。道中、敵はすでに上島砦を陥落させ、肥後は戦死したとの報を受け、ようやく王滝城に入り休息した。飛兵(飛騨の兵)が襲来し、斎藤内匠らは敵兵3、2人を斬り倒し、吉田伝左衛門らは敵騎6、5人を殺傷した。その折、滝越より三浦八良来援し、敵兵2、3人を討ち、敵兵は驚いて退いた。野尻右馬助家益、三浦八良らが追撃に城を出たところ、たちまち敵兵百余が城西の嶮(けん-崖)を越えて城中へ乱入した。城兵は支え切れず、一二日義元は城を棄て三尾に向かったが、山中は岩石朽木が多く峻坂で馬が進めず、徒歩で山上に至ったところへ飛兵が本道より追撃してきて義元を追い詰めた。従士の大森庄内、萩原源三等は戦死し、義元は敵兵を一人討ち、二人負傷させたものの、自らは重創を破って倒れた。黒川三郎、三尾五郎三衛門重国が踏みとどまり、敵四人を討ち、追手はようやく退いた。沢渡に至りて義元をあんだ(手へん 笰)に乗せ福島へと急いだが、河合に至って終に卒した。
谷中の援兵三百余は黒沢より進み、飛兵を破って王滝城を奪回し、滝越に迫った。一一日から一二日黎明(れいめい-夜明け)にかけて、三沢で飛兵と激戦を交え、野尻家益、三浦八郎、大妻新左エ門、畑三左エ門、真壁美濃等の木曽の勇士はみな戦死した。三沢に在った木曽殿の墓(五輪塔)は、この戦没勇士の合葬の墓標であったが、ダム建設のため水没の為、他所に移転している。滝越に退いた敵の残兵は、木曽氏に来援した村井忠左エ門、中関大隈、沖田淡路ら率いる裏木曽の兵三百余と戦って、大敗し散り散りになって逃がれた。
参考:
村誌王滝
天文年中、甲斐・武田氏が勢力を強めると、小笠原長時、村上義清、諏訪頼重、木曽義康(18代)ら信濃の諸将は盟約を結んだ。しかし天文一七年(1548)七月、武田晴信(信玄)によって高遠を奪われ、千村重綱は木曽へ戻った。翌一八年四月、信玄は桔梗原で小笠原長時を破り、敗残兵は木曽へ逃げ込んだ。武田軍はこれを木曽からの援軍の退却とみなし追撃したが、木曽軍は鳥居峠に陣を敷いて迎え討ち、武田軍を退けた。
二三年八月、武田晴信は木曽攻略を目指し、まず洗馬を落とした。弘治元年三月、晴信再び攻め入り、贄川、奈良井を奪い薮原に侵入したが、上杉謙信が川中島に兵を出すと聞き、四月に薮原に砦を築き栗原左衛門、多田淡路らに守らせて引きあげた。木曽義康は王滝に拠りて飛兵と戦い、子・義昌に薮原を攻させたが突破出来なかった。八月、晴信が再び来て、栗原左衛門、飯富兵部、長坂均閑、市川宮内らに福島の義昌を、甘利左衛門、原隼人、内藤修理、馬場民部、春日弾正らに王滝の義康を攻めさせた。原隼人は木曽の地理に明るかったので、萩富から新道を通し末川に達し、黒沢・長尾の両路から王滝城を包囲した。義康はもはや抗しきれないと察し、降伏を請うた。晴信は受け入れ本領安堵のうえ娘を義昌に嫁がせ、武田一門に準じた。
参考:
『大桑村誌 上巻』(大桑村、昭和六十三年)180頁
天正元年、武田晴信(信玄)没し、勝頼が継いだ。天正三年長篠の戦で敗れ、多くの宿将を失って以来武田氏の勢力は俄かに衰えた。勝頼は新府の城を築かんとして、材料の棟梁十万挺を木曽に課し、しばしば夫役も命じたので木曽の人心は武田氏より離れていった。織田信長はこの機に乗じて甲州を討たんとし、天正九年苗木城主遠山久兵衛を以て木曽氏を誘った。人心すでに武田氏を離れたときであったから、木曽氏は直ちに同意した。そのあかしとして義昌は人質として弟・上松蔵人を織田氏に差出した。万里夫人の内報によりこれを知った勝頼は大いに怒り、天正十年正月武将を派して木曽を攻めさせた。義昌はこれを鳥居峠に迎え撃って破った。
同年二月、勝頼自身が兵を率いて来攻すると聞き、義昌は信長に援軍を求めた。信長は遠山久兵衛友正に木曽の救援を命じる。
二月六日、神保治部ら武田勢が侵攻し、木曽軍は薮原に陣をしき大敗させる。二月十六日勝頼は今福筑前を将として再度木曽に向かわせる。木曽軍は先陣として、千村・丸山氏(中津川)らが鳥居峠に、本陣は木曽義昌で中関氏(大井)沖田氏(落合)らが荻曽口に、後陣には山村氏が薮原に構えた。苗木城主・遠山久兵衛の意表をつく攻撃や、東濃諸士の活躍により木曽軍は大勝した。
信忠を伊奈口から、また金森長近を飛騨口より進撃させた。信忠は二月一四日岩村に着陣、その後伊奈郡に入り高遠城を落とし、三月三日上諏訪に入った。勝頼は信忠の来襲を聞いて退却し甲府を守った。やがて勝頼は天目山を最後に討たれ、ここに武田氏は亡びた。このとき信長は諏訪にあった。三月二十日義昌は信長に謁し、筑摩・安曇両郡を賜り深志(松本)城主となる。だが領民は新主を喜ばず、混乱を続けていた。
このとき武田氏に信濃を追われた小笠原長時の子貞慶は、諏訪に赴いて信長に本領安堵を嘆願したが、既に義昌に与えた後であったので許されず、やむを得ず貞慶は京都に去った。
同年六月、本能寺の変が起きる。この機に乗じ、上杉氏は信濃に侵入した。小笠原長時の弟・洞雪貞種は二木氏に迎えられ、上杉氏の援けにより六月十六日、深志城を攻めた。義昌はその抗すげからざると知って講和し、城を開いて木曽に帰った。深志城は再び小笠原氏の手に帰したが実権は上杉氏にあったゆえ、小笠原氏旧臣らは事志と違いしを恨み、貞慶が三河・徳川家康の下にあるのを知り、これを迎えて将となし、七月一六日深志城に迫り、翌一七日攻略して故地を回復した。貞慶は深志城を松本城に改称した。
義昌は徳川家康と結ぶことの利なるを察し、使を送って親交を求め、家康に二心なきを誓った。しかるに天正一二年の春、小牧長久手の戦いが起こる。このとき義昌は盟約に叛き、豊臣氏に通じ、秀吉の命をうけて妻籠に城を築いて山村良勝を将とし、兵三百人と二十騎をおき、兼山の城主森忠政を後詰として木曽を塞いだ。家康大いに怒り、菅沼定利その他の武将に七十騎を引き連れさせて、清内路口よりこれを攻めさせた。良勝らよく防戦につとめたため、遂に城を抜くことをえずして退いた。木曽兵はその後背を蘭に追い、大勝した。
義昌が徳川に叛したことから、この年功臣の奈良井義高との間に不和を生じ、義昌はこれを成敗したる故、その子義尚、及び贄川又兵衛、同監物、千村丹波ら小笠原氏に走り、同年秋小笠原氏の兵と共に木曽へ侵入した。義昌は山村良勝、古畑伯耆以下の士と防戦したが、敵は薮原より福島へ乱入して上之台の館は兵炎に羅った。この間各地よりの援兵も集まり、郷民もまた防戦に合力して、ようやくにして撃退することが出来た。これよりさき義昌は福島の館の危険を知り、夫人ならびに子供らは、王滝村の上島館に避難せしてあった。
天正十三年には、犬山城主石川貞清が豊臣氏の命をうけ、木曽に来たりて良材を需め、義昌もこれに応じた。なお、先年兵炎で失った上之段の館もそのままであったから、その館建築にも相当多忙であった。
天正十八年四月秀吉が小田原北条氏征討の軍をおこした際、義昌は病の故を以てこれに参加せず、わずか十四歳の子・義利を代理として遣わし徳川家康の軍に属したが、北条氏討伐後嫌疑を受けて、同年七月秀吉は石川貞清を木曽に遣わし、義昌の封を没し促して木曽を立ち退かしむ。時に義昌未だ義利の所在を詳かにせず、倉惶として木曽を発し、ひとまず下の諏訪に退けり。八月に至り家康より、采地を下総国海上郡網戸に遷す旨知らせあり、彼地において僅かに一万石を賜ったのみである。
このとき義昌に従って下総に赴いた者はわずかに山村良候、同良勝、千村良重以下一三名に過ぎなかった。山村良候は老輩であったが義昌に随行し、その落着くのを見届けて木曽に帰った。のち石川氏の懇請を入れてその用人となった。
網戸(現千葉県旭町)に移った義昌は、椿海(現在は干拓され田地)に面して城を築造し、ここに落ち着いた。今その付近に、甚兵衛殿屋敷、平右エ門殿屋敷、馬場殿屋敷等の地名に残り、また菩提寺東禅寺も現存している。
義利は十四歳の時父に代わりて小田原役に従う。天正十八年父に従って網戸へ同行した。十九歳のとき父に死別した。義利は粗暴でむやみに人を殺したため、慶長五年(1600)家康によって領地を剝奪され改易された。やがて木曽氏は滅びた。
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