慶長十二年(1607)領主徳永壽昌が、伝馬困窮のため諸役を免除した。戸田氏入国後に正保検地が行われ、慶安二年(1649)宿驛と定められた。諸役免除(無役)で年貢は固定税率五割(定免五ツ取)で、萬治二年(1659)秋からは四割(四ツ取)となった。
高札は、駄賃、人足荷物の次第、切支丹、毒薬似薬種、徒党、火付、親子兄弟、輸入品(唐物披荷)・偽金(似金銀)等、大小十枚あった。(『大垣藩雑記』)
御定の人馬は五十人・五十匹であったが、この驛が立てた人馬は二十五人二十五匹、うち六人・三匹が囲人馬(緊急時に備えた待機分)であった。宿役は問屋三人、年寄一人、肝煎(きもいり)一人、帳付二人、馬指三人、人足指一人、定使があった。
大垣藩では有事の日に備えるため、延寳二年(1674)に「百匹傳馬」の制札を立てた。その仕組みは藩の厩に四匹、大組頭衆八組へ十二匹ずつを割り当てるものである。これらは更に領内の十石以上の財産家に飼育させ、平素は大垣・赤坂両宿の伝馬に使用させる。使用人には馬代一匹二両を支給して良馬を購入させ、さらに飼育料を与えた。そのため、毎年飼育料二百五十両を領内、垂井・今須・墨俣・美江寺宿付助郷以外の村々に賦課し、代官収納し人馬奉行に渡した。人馬奉行から馬持ちへは一匹につき二両二歩渡すことと定められていた。享保三年(1718)からは物価騰貴に伴い五十両を増額して支給した。賃銭は上り(垂井へ一里十二丁)人夫一人につき二十六文、馬一匹につき五十二文であった。木賃銭は主人が三十五文、召仕一人で十七文、馬一匹で三十五文だった。(正徳元年 [1711] 五月定)
『覽富士記』(永享四年-1432- 連歌師堯孝の義敢将軍随行)
赤坂の宿にて、
おりに逢ふ あきの梢のあか坂に 袖ふりはへて いそく旅人
道すがら伴う人が、紅葉したる蔦(つた)を、いかゞみるとくり出され、
旦みても 袖にそ餘るまだこえぬ うつの山路の 露の行ゑは
どこのことだっただろう、霧立ち込めるひま〳〵より、稲がほのかにみえて、優美である秋の空に雁が連れ立って飛ぶ、
秋寒く 田のものいなば雁そ鳴く 霧の朝げの 空もほのかに
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)