府内村古城

鼻欠田亀

※詳細な場所は不明。府内公民館におく。

大野郡の北の方は、谷汲山観世音参詣の道の辺り、結城の庄の中に、府内という所がある。ここに古城の跡がある。その城主について尋ねると、文安二年(1445、乙巳)四月、山岸加賀守藤原光範という者が初めてこれを改築し、居城とした。

山岸氏

そもそもこの山岸氏というのは、その祖は加賀国の住人である。大織冠鎌足公の四代の孫である川辺左大臣正二位魚名卿の子・従五位下中務少輔鷲取、その子・従四位下加賀守藤嗣、その子・越前守中宮亮正四位下高房、その七男・正五位下常陸介時長、その子・鎮守府将軍左近将監利仁、その子・斎藤斎宮頭叙用、その子・加賀守吉信、その子・加賀介忠頼、その子・加賀守吉宗、これより六代、今城寺太郎光平の五代の孫を、山岸新左衛門尉光章という。加賀は江沼郡の山岸という所に住み、建武・延元(1334-1340)の頃、名越太郎時宗・相模次郎時行らを北国で討ち取って以来、南朝に与し、新田義貞に味方して越前で数々の戦功を挙げた。しかし義貞が自害して以来、その弟・脇屋右衛門佐義助が越前を去って美濃の国に落ち延び、大野郡尾徳の山城に入って立て籠もったものの、土岐頼康に攻め立てられ、その後吉野へ去った。さてまた、山岸新左衛門蔵人は脇屋義助のあとを慕って、同じく当国に落ち延びて根尾の長崎の城に立て籠ったが力尽き、これより土岐氏に属した。

そうして子孫が代々続いて長峰の城主であったが、光章から五代の孫にあたる加賀守光範の代に至り、結城庄府内の地を見立てて自ら一城を構え、長峰より移った。しかし光範には男子がなく、よって可児郡明智の城主である明智刑部少輔光宣の次男を養子に迎えて家督とし、山岸作左衛門尉光貞と名乗らせた。その子・加賀守貞秀、その子・勘解由左衛門光信まで、代々この城に住んだ。

勘解由左衛門は斎藤龍興の幕下(配下)にあり、その頃「西美濃十八将」の内にあった。永禄(1558-1570)の頃より、龍興は織田信長と確執が生じて、度々合戦に及ぶ。山岸勘解由左衛門・竹中半兵衛以下西美濃の老練な謀士らは軍略を示して龍興を助けた。しかし龍興は暗愚な将にして、その諫言を用いず、義に外れることが多かった。各々は天命を察し、所詮は斎藤氏の家運が傾く時節が到来したのだと、竹中は◎菩提山の城を捨て栗原山の奥に入って隠棲し、山岸もまた府内の城を捨て、西美濃桂の郷の山林に入って隠棲した。それよりほどなくして斎藤氏は没落した。これによって府内城もまた永禄七(1564)年より断絶するに至った。

光信の子に作左衛門貞連、作之丞光連という兄弟がいたが、明智光秀の近士として仕えていた。天正十年(1582、壬午)六月十三日、光秀が山崎の合戦に敗れて坂本へ退いた時、その夜伏見の小栗栖の里にて自害し、その際、第一番に光秀をお供して殉死したのが作左衛門貞連である。

鼻欠田亀

さてまた、この結城の郷というのは、西国三十三番札所の◎谷汲山華厳寺へ参詣する道筋にあり、沼田の中には、鼻欠田亀というものがある。その由来は、結城府内の城主の山岸作左衛門尉光貞が当城主であった明応二年(1493)の事であるが、遊興の川狩りのため結城村近くの沼田の流れを渡っていた時、泥中に潜む一匹のスッポンが、光貞の足に喰い付いた。山岸はものともせず、自ら手を伸ばしてそのスッポンを掴んで引き剥がしたところ、喰い付かれた傷口より夥しく血が出た。

光貞怒って「この者、わが領内の沼地に住んで他人の猟害を逃れ、安く身を置きながらその恩を知らず。領主たる我が足に喰い付きて害をなす事、物を知らぬ曲者なり。魚、鳥、獣、虫、ともに命を大事と思うこと同じ。恩を知らずんばあるべからず。このスッポンこそ、奇怪の者なれ」、すぐに士卒に命じ「領外を出し、他の川水へ流すべし」などと。

その時、郎党の林半四郎という者が申し「君のたまう如く、恩を得て恩を知らず、かえって害心をなす魚甲、助けて捨つ(:逃す)謂れ(:訳)なし。ただ一刺しにして害すべし」と申し上げたが、
光貞制し「死せし怨みは死をもってあたう。かれが仇は、ただ一つの喰い傷のみなり。然らば、ただ傷をしてあたうべし。さりながら報(むくい)じても止み(十分)なんか」。林「恩を受けし君にさえ害をなす悪スッポン。余人にはいかなる害をなさんも計り難し。その災を絶たんため、顎を切って捨つべし」と言って、かのスッポンの鼻より上の片顎を切り落とし、「主君に害をなしたる悪スッポン、永くかくなりて、苦しめかし」と言いながら、そのあたりの沼水に投げ込んだとか。

しかし翌日、光貞が再びその所にやって来ると、泥面にスッポンが数多く群がっていたため、どうしたことだろうと思い、林に見に行かせた。すると不思議かな、数多のスッポンが寄ってたかって、昨日の鼻欠スッポンを喰い殺していたという。誠にこのあたりの泥の中に住むスッポンどもは、みなことごとく光貞の領内のものであるため、人がこれを捕ることはできなかった。それによって、スッポンどもは安住していたのである。それにもかかわらず、あの一匹のスッポンは思いがけず光貞の足を悩まし、臣下が怒って先の言葉をかけて捨てたのだった。林の申したことは、まさに道理であった。その他のスッポンどもはこれを殺して、領主の恩を思って仇を報い、その怒りを鎮めようとしたのであろうか。生あるもの、どうしてその理を知らないことがあろう。恐るべし。光貞も、殊に感じ入ったという。

さて、このあたりは山々の間にある地であって、水の流れが悪く、深い沼や沢が多かったが、不思議かな、そこから生まれたスッポンは今に至るまでことごとく上あごを欠き、見苦しい形である。俗に「鼻欠田亀」という。西国三十三番札所、谷汲の観音へ参詣する道にあたり、ここにお参りする巡礼らは、里人に聞いてよく知っていることである。右の明応年間(1492-1501)より星霜遥かに経ったといえ、今に至るまで「鼻欠田亀」となって生まれる。ひとえに光貞の貴き威徳によるものと知られているという。

参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬193番地
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