稲生村の邊、幕末頃には田圃となって、その所は定かでない。名塚村の境、惣兵衞川のほとりに、小さな杜の古塚が廃れたようなものがある。またその他にも小さな松林など所々にあるのは、兵士戦死の跡であろう。名塚村にも砦の跡がある。
織田信長公は清須に居り、舍弟の勘十郎信行は末森に在った。那古野には林佐渡守信勝を城代として差し置かれていた。弘治二年(1556)、信行は兄の信長公を討って家督を継ごうと欲し、叛逆を企てた。柴田権六勝家、林美作守(佐渡守信勝の弟)がこれに与し、信長公を危うくさせる。信長公はこれに対し、清洲の東の名塚村に要害を構え、佐久間大学を入れ置いて守らせた。
長雨は降り続き、於多井(おたい)川が洪水となった。この時を待ち、八月二十四日早朝、柴田権六が一千余騎、 林美作守はおよそ千騎で打ち出で、名塚の城を攻め落とそうと押し寄せた。にわかに構えた砦ゆえ抱えがたいと考えたか、大学は水練の達者を選んで於多井川を渡らせ、清洲に告げさせた。信長公は即時に出馬し、馬を早めて馳せ来て、於多井川の大水を乗り越えられる。これを見た権六と美作守も西北をさして駆け向かった。
信長公の勢力は、川は越したもののわずか七百騎ばかり。柴田・林の勢力は二千に及ぶ多勢であり、危うかったが、気を奮い立たせ、総人数を二手に分けた。織田造酒丞(みきのじょう)、同勝左衞門を武者大将として柴田勢に向かわせ、佐々孫助、山田治部左衞門もまた武者大将として林勢へ懸け向かわせる。佐々・山田の勢力は、林の多人数と戦うも敗色となり、両将は怒って戦ったが、ついに孫助も治部左衞門も討ち取られてしまった。
美作守が勝ちに乗って働いていたのを、森三左衞門遙かに見て、「今日の合戦御勝なり」と信長公へ申し上げる。さて三左衞門は奇計を巡らし、林の諸勢を誘導して自身の旗本の備えを崩し、敵を引っ掛けた。その虚を見極め、三左衞門は大音をあげ「すは今こそかゝれ〳〵」と下知し、槍を揃え突きかかる。黒田半平は美作守に渡り合い、斬りつけられつつ危かったので、信長公がさっと走り寄り、槍をもって美作守を突き倒した。そこげ御中間の缺口の杉若という者が駆け寄り、林の首を討ち落とした。信長公は缺口を賞し、黒田半平に仰せて士に取り立てさせ、黒田杉左衞門と名付けられた。この勢いのまま、林の手の者を追い散らした。さて、造酒丞、勝左衞門をはじめ、織田左馬允、佐久間大学らは、柴田勢と数刻にわたり戦っている所、後方から信長公が大音声で罵る。
「林美作守を討ち取ったるぞ、勝家をもらすな、討ち取れや」
諸勢はこれに力を得て激しく戦った。佐久間大学は橋本十蔵と組み合い、ついに十蔵を討ちとった。こうして勝家は叶わぬと見たか、螺(ほら)を吹いて逃げた。味方は勝鬨をあげ、小幡、守山まで追い討ちして二百余騎を討ち取った。雑兵どもは七百余の首を挙げ、清須へ帰陣した。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)