※正確な場所は不明

大野町の更地村(石灰四万俵)、古川村(石灰三万俵)、寺内村(石灰三万七五五貫)では石灰生産量が多く、その販路は大坂、江戸と広汎にわたった。県内有数の石灰石の産地、更地山を控え原料に事欠かなかったためである。

更地石灰

慶長六年(1601)頃から焼き始め、釜数は次第に増加し、宝永二年(1705)には更地村に23人の石灰焼人がいた。同年に大垣藩担当役人・奥富伴右衛門に提出した『木振・更地両村石灰直段付並 焼出し舟数帳』によれば、両村で鵜飼舟170艘分の生産があった。うち38艘が大坂廻り、41艘が伊勢廻り、91艘が桑名・名古屋廻りで、1艘あたり石灰200俵換算で、年間34,000俵が他地域へ売られていた。

しかし近世後半、一大販路の大坂石灰問屋の値下げ攻勢で苦境に陥った。寛政七年(1795)には大坂問屋と美濃山元の間で石灰価格の折り合いがつかず、ついに取引を断絶した。寛政十一年(1799)に幕府が江戸での石灰問屋開業を解禁すると、更地村の太郎左衛門等三人が代表となり、幕府勘定所へ問屋開業許可を願い出て許可を得、石灰問屋「美濃屋」を開業して関東販売に乗り出した。

美濃石灰はその品質の良さから評判を得たが、海路輸送の手間や、問屋支配人との紛争などで大規模な商いには至らず、休業を余儀なくされた。こうして寛政年間(1789-1801)には更地から三倉(久瀬村)にかけての揖斐山地の大垣藩領で釜数二五口、年産二十万俵の規模を誇った石灰焼は、急速に生産規模を縮小し、代わって藩直営の御手竈による生産へ変わっていった。

参考:『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)467、470頁

揖斐郡大野町
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