小牧街道の道すがら、春日井原新田の北にある。もとは一つの小堂があって、西行法師の木像を安置していたが、ある年洪水のために流失して、今はこの橋の側の丘にその名が残る。
西行上人在世の時、春日寺(今は廃して村名のみ残っている)という古刹に杖を留めて住まれたと云い伝え、その時の詠歌として、次の歌が今も口碑に残る。
小せりつむ 澤の氷のひまたえて 春めきそむる 櫻井の里
小さなセリを摘む。沢の氷が解けて隙間ができ、春めいた気配が染まる桜井の里
春
ひくま山 ふもとに近き里の名を いくしほそめて こきといふらん
引馬山の麓に近い里の名を、何度も(幾汐も)染めて「濃き」というのであろうか
あれわたる 草野の庵にもる月を 袖にうつして 詠めつるかな
荒れ果てた草深い野辺の庵に漏れさしこむ月の光を、袖に映してしみじみと詠むことよ
秋
しかし『山家集』をはじめ『撰集抄』にも見えない為、真偽は定かでない。むかし西行堂に安置していた上人の像は、自作といい伝えていたが、ある年の洪水で流失し、川下の比良村の葭池という池に埋もれて、年月を経たが、数百年の後、村民何某廬を刈ると、かの泥中からこの像を感得した。ほどなく府下の士の星野某が乞うて得て所蔵したが、そののち杉村馬州という俳諧者流に譲ってから、前津の馬州の隱宅にあったのを、明和の頃(1764-1772)に、村中原の臥雲・小牧、玉林寺の布毛和尚など相継いでともに乞い求め、天明のはじめ(1781-)に一之久田本光寺に一堂を建てゝ安置した。
この堂は内藤東甫が造立した。この時、唐橋大納言實連卿が額を賜った。こうして布毛和尚・東甫など心を合わせて、詩歌を集め一冊とし、『西行堂中興志』と名付けて世に広めたが、 淸人沉琬綸の序文もあって、 詩歌も諸国から詠み出されたものを載せた。その百の一つを以下に記す。また文化八年(1811)春日井原の俳士で得芝という者が、この像を乞い得て自らの住む傍らに安置し、その法樂に『木瓜(ぼけ)つゝじ』という俳書を著す。得芝が沒後はまた本光寺に伝わり。今も安置している。
『西行堂中興志』
本是上皇北面郎。遙將揖讓喩鎌倉。彫弓影遠眞如月。遺像猶聞道骨香。 人見磯邑
(:もとは上皇の北面の武士であったが、既に譲り鎌倉に仏教を説諭する。彫弓の影遠く眞如(悟り)の月のように。遺像は猶聞く修行者の骨の香りのように。
圓位遺蹤何處尋。飛車山北蒔蘿深。不堪古錦千秋色。尚對慈容涙濕襟。 常陸 蕭々齋
(:圓位(西行)の遺跡はどこにあるか尋ねる。飛車山(高野山)の北は草深く、古錦千秋の色堪えず。なお慈愛に満ちた姿で涙で襟が濡れる。
しのべとて たれ殘しおくおもかげぞ そのきさらざも ふりしむかしを
横井並明 偲んでおくれと誰が残して置いた面影なのだろうか、その如月(旧暦二月、西行の命日)も遥か昔となったのに
うつゝとも 見る面影にひくま山 なほしのばるゝ 里のことの葉
若狭 一吹良松 現実ともみえる面影に引馬山、名を偲ばれる里の和歌
跡とめて 花のあるじを尋ねみむ ふもとにちかき 里のふる道
越後 釋正念 足跡を探し花のあるじ(西行法師)を訪ねてみよう、麓近くの里の古い道を歩いて
春
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)