那古野古城

今の名古屋城の以前にあった古城は、弘治の頃(1555-1558)には城主もなくなり廃城となった。その旧地は、今の城の二の丸のあたりにあった。

その古城の始まりは、後柏原天皇の御代(1500-1526)に遡る。三河国臥蝶の地頭・大河内貞綱という人がいた。もとは吉良家の被官だったが、近年自立して勢力を伸ばし、駿河の今川氏親と合戦した。大河内は尾張の守護・斯波義達に援けを乞いて、遠江の引馬の城(浜松城)に立て籠もる。氏親は一万余の軍兵を率いて、永正十年(1513)三月遠江へ向かう。また義達は大河内を援けて深嶽に出張したが、今川の家臣・朝比奈十郎泰以に敗れる。同十一年三月、大河内は再び引馬を取り返し、また尾張へ出馬を請いたので、義達は再び進発して、大河内と共に引馬に籠城した。氏親もまた三万の兵で、同年六月、城を包囲して攻撃したので、八月十九日、終に落城して、大河内貞綱、その弟。巨海新左衞門尉道綱以下千余人が討死し、義達は降伏し、普済寺に入り剃髪し(法名安心)、今後駿河に対して弓引くことはないと、起請文を残して尾張へ帰国した。

そうして義達は隠居し、その子・義統が家督を継いだが、大永のはじめ(1521-)、氏親が尾張の那古野に城を築き、末子・左馬助氏豐(義元の弟)を入れて、清須(斯波義統の居城なり)の押さえとし、義統の妹を氏豐に嫁がせて、東西の隔てなく静まった。

その頃、海東郡勝幡の城主・織田弾正忠信秀(清州三奉行の一人)は今川氏豐と共に連歌を好み、互いに贈答していたが、ある時、小田井川が洪水となり、使者が誤って連歌の懷紙を入れた文箱を流失させてしまった。両家は本意なき事に思い、その後互いに会合するようになり、信秀は那古野城に赴き、一間の居所を乞い得て、五、三日或は十日程ずつ逗留し、連歌・茶湯などして遊んだ。

享禄五年(1532)の春、例の如く信秀滞留し、本丸に向って窓を切り開いたので、今川の家臣はこれを怪しみ、客人ながら、御館に矢狹間を切るとは心得ぬと申したが、氏豐は聞き入れず、この人に限って別心はない、大樹が覆う柳の丸は暗く、風流の窓であろうとして、更に留めなかった。そうしている程に、三月十一日、信秀俄に大病と偽り、清須・勝幡の家人を呼び集めてひしめいた。夜に入って、今、市場の方に火事ありと、城中さわぎ立った。若宮社・天王・天永寺・安養寺に火がかかり、火の粉を城へ吹きつける。城の東南の方より、勝幡の兵士、日置の城主・織田丹波守と調じ合わせて、鬨の声を上げて攻め寄せ、柳の丸でも閧の聲を上げて火を放ち、内外より攻め立てた。今川家臣は、不意の夜討ちに敗れ皆討死する。氏豊は藥師寺刑部丞をもって助命を乞い、母方の縁を便りに上京した。信秀は計略によって容易く乗っ取り、やがてこの城に移った。

しかし、天文三年(1534)に吉法師丸(信長の幼名)が誕生し、その翌年、南の古渡に新城を築いて信秀は移り、那古野は信長の居城となった。同二十三年(1554)七月十二日、清須の家臣・織田彦五郎信友が斯波義統を殺してなお清須にあったが、翌弘治元年(1555)四月二十日、信長兵を率いて彦五郎を討ち取り、清須城にうつり、那古野は信長の叔父・孫三郎信光の居域となったが、その年の十一月二十六日、信光もまた家臣・坂井孫八郎に殺され明城となり、林佐渡守信勝(信長の臣)が城代となった。同三年正月信勝もまた叛心あって信長に追われ、終に廃城となった。

(『那古野合戰記』・『宗長手記』・『同宇津山記』・遠山信春が『惣見記』・木村高敦が『續武家閑談』・『尾陽雜記』・『鹽尻』等)

参考
『尾張名所圖會 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)