南北朝建武の頃、地頭遠山氏は九州崇福寺から臨済宗南浦紹明の弟子・峯翁祖一を迎え、明覚山大円寺を建立した。遠山氏は菩提寺とした。

飛騨荻原城主・三木直頼の兄・明叙慶俊(妙心寺-龍泉門派)は、岩村城主・遠山景前に迎えられ大円寺を再興し、禅宗に深く帰依する武田信玄の招きに応じて恵林寺を中興した。さらに御嵩の愚渓寺、禅昌寺を再興した。この頃、飛騨の三木氏は主家である飛騨国守護・京極氏が越前浅倉氏と美濃土岐氏に滅ぼされ東濃の遠山氏と結んだ。この時期、武田と織田も組んだが、大円寺・希菴、武田方は安国寺・麟岳、織田方は政秀寺・沢彦等の臨済僧が斡旋したという(『妙心寺史』)。

明叙の死後、その弟子希庵が大円寺へ入った。甲州の同門の僧侶達と交友し武田氏と遠山氏の間をとりもったようであるが、弘治二年(1556)に遠山景前が病死すると、跡を継いだ遠山景任は織田信長と結んだ。希庵はこの年の秋飛騨の禅昌寺に移った。

永禄三年(1560)希庵は勅を奉じて妙心寺に出世し、その後武田信玄の招きを受けて恵林寺に迎えた。信玄の生母・大井氏の十三回忌の法要を営んだが、まもなく恵林寺を離れ京都へ移り、元亀年間には大円寺に戻っていた。信玄は恵林寺に迎えようと再三使者を送ったが希庵は固辞し岩村に留まった。元亀三年(1572)十一月、秋山春近(虎繁)の東濃攻略の際、刺客が差し向けられ、希庵は飯羽へ逃れたものの、十二月二六日に橋上で殺害された。同時に大円寺も焼かれた。現在、この橋は「希庵橋」といわれ、その傍の丘には墓があり希庵塚という。

翌天正元年(1573)には岩村城も落城して遠山宗家も滅亡し、大円寺が再興されることはなかった。

出土品は、古瀬戸系の椿手の骨壺、無釉の印花陶器、天目釉の茶碗や徳利、瓦器、須恵皿、山茶碗、おろし皿等で鎌倉・室町のもの。また外五輪塔、古銭、古井戸柵、木箸等も出た。遺跡は、石垣、井戸址、敷地址、道路址もあり、十数町の大藪が殆ど大円寺境内であったらしい。古銭の周通元宝、天禧通宝、煕寧元宝、天聖元宝、聖宋元宝が出土し、何れも宋代(960-1279)の通貨。

参考
岩村町史刊行委員会『岩村町史』(岐阜県岩村町役場、昭和三十六年)123-142、151頁

恵那市
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