※詳細な場所は不明だが、この辺り一帯か。
味鋺村の北方一帯は、味鋺原・勝川原などという非常に広い荒野のかや原であったが、年を追って畑に開墾し、田に作り替えて、五穀を産す村里となった。
国祖君(尾張藩初代藩主徳川義直)がこの地で鷹狩し、雲雀(ひばり)を捕りなさったが、尾関弥左衞門が度々、この野にお供した。その後、こゝち死ぬだろうと感じた時、
我しなばはい鷹すゑて夏しなむ春日井原に雲雀練る頃
(:我が死ぬのであれば、ハイタカ(小型の鷹)を腕の乗せて夏に死のう。春日井原に雲雀が羽が抜け地上を這う(練る)頃。
と読んだと口承に残る。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)