※詳細な場所は全く不明

富士見の辺りにある。東郊を望む亭で、風景は類いなき借座敷である。書画会等の風雅な集まりを催すのによろしく、遊人は常に絶えることがない。

醉雪樓醉歌 秦滄浪
花鳥風月無不醉。今入此郷倍能醉。一杯々々醉引醉。三斗亦醉五斗醉。温克之身宜純醉。吾輩其人何不醉。曾讀陸老十二醉。無如八仙音蓮醉。任它平泉不解醉。憐此右手螯勸醉。狂草書發狂僧醉。於是普提亦稱醉。誰向周郎醇酒醉。竹得五月梅雨醉。如君欲問我善醉。一月二十九日醉。

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花鳥風月に酔わないことはない。今この郷に入ってますます酔う。一杯また一杯と酔いが進み、三斗、五斗と酔う。普段は心穏やかな身もすっかり醉い、我らはどうして酔わずにいられようか。かつて読んだ陸老の十二酔、八仙音蓮の酔いと比べられず。平泉が酔いを理解できなかろうと構わない。(平泉とは李徳裕の別荘のこと。風流を気取りつつ酒の真髄を解さなかった過客を刺す意味)愛すべきこの右手がカニのハサミを肴に酒を勧める。激しい草書に書いて狂僧が醉い、ここでは菩提も酔いを称える。周郎の美酒のような人柄に酔い、竹は五月の梅雨を得て酔う。もし君が我に善酔を問うならば、一月に二十九日酔うことだ。

甲申仲冬同諸君飮醉雪樓 大窪詩佛
城外酒樓號醉雪。故人相招衝來雪。我在越山日阻雪。何圖今日此賞雪。乍歇乍来如春雪。遠看如煙近是雪。茶熟石鼎香湧雪。膾盛銀盤絲堆雪。坐中吟咏皆白雪。客愁都似湯沃雪。六十老翁兩鬢雪。醉雪樓頭來醉雪。

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甲申の年(1824)の冬の半ば、諸君と同じく酔雪楼で飲む 大窪詩佛
城外の酒楼は「酔雪」と名付けられている。旧友が招き雪の中を来た。私が越の山に在った日々は雪に苦しめられた。どうして予想できようか、今日ここに雪を賞美しようとは。たちまち止み、たちまち降る様子は春の雪のようである。遠くをみれば煙のようで、近づけば雪であった。茶は石の鼎(かなえ)で熱して香雪を沸かし、刺身は銀の盆に盛られて糸雪のように積み重なる。座中の詩はみな高雅(白雪)で、旅の憂いはすべて湯が雪を溶かすように消える。六十の老翁の両びんの白髪(雪)、酔雪楼にやって来て雪に酔う。

已亥仲春。同諸子遊于醉雪樓。樓主人出滄浪詩佛兩翁之醉歌雪咏之二大幅示余。余亦併兩翁之二篇 賦醉雪歌一章。以與主人已亥仲春。

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已亥(1839)の春の半ば。諸君と同じく酔雪楼で遊ぶ。楼の主人が、滄浪と詩佛の両翁の「酔歌」と「雪咏」の二つの大きな掛軸を出して私に示す。私もまた両翁の二篇を合わせて酔雪歌一章を作り、主人に贈る。

醉雪樓頭往年雪。滄浪詩佛來醉雪。両翁醉雪坐走毫。浪賦醉字佛賦雪。醉雪二篇今猶存。吾輩今日非醉雪。春暄無雪人亦醉。醉顏快受飛花雪。遠山雪消天如醉。醉客指呼富峯雪。一醉百憂春雪融。醉中詩思冷於雪。忽然初成醉雪吟。醉墨灑來楮皮雪。鶯花雪月皆可醉。此樓乍麼獨醉雪。

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酔雪楼の往年の雪、滄浪と詩佛がやって来て雪に酔う。両翁が雪に酔って筆を走らす。浪は「酔」を詠み、佛は「雪」を詠む。酔雪の二篇は今なお残る。我らは今日の雪に酔っているのではない。春の暖かさは雪を無くして、人はまた酔う。酔顔は舞い散る花の雪を快く受ける。遠くの山の雪は消えて天は酔っているかのようだ。酔客が富峯(富士山)の雪を差して呼ぶ。一度酔えばあらゆる憂いが春の雪のように融ける。酔いの中の詩情は雪よりも冷たく冴えわたる。そうして忽然と醉雪の吟が成った。酔った墨が楮皮の雪(白い紙)に注がれる。ウグイスも花も雪も月もみな酔いしれる。この楼どうして独り雪に酔うことがあろうか(すべて酔うのだ)。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市中区上前津2丁目10番14号
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