三淵村にある。曹洞宗、能登国總持寺の末寺。もとは中島郡下津村にあって、禅宗の近国の総録として、禅院の僧尼を管理していた。
應永元甲戌年(1394)、当国の領主・青生直正によって開創された。
寺伝には、直正は尊氏将軍の三男直冬の曾孫である、というが年歴も違えば、事実も合わない。『張州名勝志』に「青生尾張守直政。源尊氏親族。尾陽侯修理入道家貞子。尾張守尊常斯波武衞是也」とありこれに従うべきである。尊常を諸系図には高経と記し、常国守護・武衛家の元祖であった。当寺に位牌があり、表には「正眼寺殿源朝臣前尾州太守青松直政大居士」と見え、その裏書に「尊氏次男直冬子青生尾張守直政」と見えるのは、後の人が書き加えた知ったかぶりであろう。
のちに小松院の勅許を得て草創し、中島郡下津郷の金剛山傳法寺の廃跡を再興して堂塔伽藍を整えた。そして「青生山(後に青松山と改める)正眼寺」と名付け、通幻寂霊禅師を開山とし、天鷹和尚を住僧とした。天先和尚は三代目の住職である。法寺村 (当寺のあった地で、下津郷の内である)は洪水の害があり、住僧の修行の妨げが多かったため、元禄二年(1689、己巳)現在の地に移した。
天鷹禅師は加賀国の人で、俗姓は藤原氏。大職冠(藤原鎌足)二十一世の裔孫・実親の後裔であるという。幼年で出家し、通幻和尚に従って曹洞宗の玄旨を究めた。五十七歳のとき、東国遊歴のついでに当国へと至り、領主の青生氏がその道徳を尊信して引き留め、当寺を建立したという。應永十九年(1412、壬辰)四月に青生直政が没し、その翌年正月二日に天鷹和尚も没した。道元禅師五世の法嗣の通幻寂靈の弟子であった。そのころの寺境は十八町四面に及んだという。
三世の天先和尚も大徳(高僧)であり、学力は衆に勝っていた。当寺と雲興寺にその手跡(書)が多く残っている。その後、慶長七年(1602、壬寅)、性高院君は天澤和尚に命じて大殿を新造した。天澤の法嗣樹林和尚は五百羅漢の像を造り、山門を修造した。
元和年中(1615-1624)、天山和尚は山門を改造し、殿堂を修補した。また門前に大路を開き、三百六十間(約650m)ほどにわたって両側に松を植えて、萬松関に擬し、山号の「青生山」を「青松山」へと改めた。
國祖君(初代藩主徳川義直)はたびたび当寺に来臨し、終日和尚と談笑されたという。その饗應(接待)では、里芋を皮のまま焼いて差し上げたこともあったという。またある時、この和尚は紙子(和紙を揉み柿渋で染めた服)を着て、馬に乗って他郷に行くのを、國祖君が御鷹狩の途中で遥か遠くからご覧になり、「何者か」と問いなさると、和尚は「馬より下津(おりず)の正眼寺」と高らかに名乗って過ぎたという。
和尚の道徳を慕って四方から来謁する者は多く、齋堂(食堂)が狭く修行の規則を立てるにも不都合であったため、新たに造作を加えてこれを広大にした。寛永十七年(1640、庚申)、佳雲恩陵和尚に寺務を譲り、自身は海西郡赤目村に退隠した。その地の領主の横井時安は、和尚が悟りを開き道を明らかにした者であったことから、その真像(肖像)に次のような賛を題した。
上々紫衣。鷄寒上樹。下々紙子。鴨寒下水
(:紫衣を着る上々が、鶏が寒く樹に上るように。紙子を着る下々が、鴨が寒くても水に下るように。それぞれ己の分相応に生き、真理を求めている。禅宗(曹洞宗)の考え方。
恩陵もまた大徳との評判があり、正保四年(1647、丁亥)九月二十八日、永平寺の良頓禅師が旧例によって状を下して僧綱(僧侶統括職)とし、あわせて当寺を当国の録所(寺社の統括機関)、曹洞宗一切の事を掌らせた。恩陵は翌年没した。臨終に際して南陽嫩壽和尚を後住とした。
慶安二年(1649、己丑)、嫩壽雲興寺(どんじゅうんこうじ)の嫩泰和尚と本寺・末寺の論争が起こり、僧録訴訟は公裁に及んだが、ついに当寺に利を得て、雲興寺を永く当寺の末寺とした。当寺の面目をはたした。
はじめ永禄五年(1562、壬辰)三月二十二日、信長公が田圃若干を寄附したが、天正七年(1579、己卯)、津田左近が攻略して経巻を焼き払い、仏像を廃し己の住家としたため、寺僧らは退散してしまった。
そこで岱松院の周閻という者が信長公に愁訴し、聞き届けられて左近は誅殺され、僧徒らは安堵した。そののち、織田信雄(信長次男)は父の遺言を受け継ぎ、天正十年(1582)八月九日に田賦寄附の朱印を賜った。
同十八年の秋にまたも散失したが、田中兵部大輔吉政が豊臣秀次公(秀吉の甥)の命をうけて若干を寄進し、文禄年中(1592-1596)秀吉公の寺領の朱印を賜い、慶長六年(1601)姓高院君の御朱印を賜いて以来、衰退することなく今に至っている。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)