日野の東にあり仁正寺と曰ふ昔は中野と稱す町の長さ十八町あり市橋氏の治所なり。
市橋氏は三條家の支族利尚より出で、美濃に居る。その子壹岐守長利は織田氏に仕え福塚城主となり、子の長勝は天正十五年(1587)今尾城主となり一万石を領し、従五位下・下総守に叙任された。慶長五年(1600)関ヶ原役で東軍に属した後、一万石を加増された。十三年(1608)伯耆矢橋に移り二万千三百石を領した。元和二年(1616)八月、越後三條に移封され四万石を領した。六年(1620)三月長勝六十四歳で卒した。義子長政が嗣ぎ、近江仁正寺に封ぜられ二万石を領した。長政は従五位下・伊豆守に任ぜられ二千石を一族の長吉に分与した。慶安元年(1648)十二月卒し、子の下総守政信が嗣いだ。
寳永元年(1704) 正月政信卒し、子の下総守信直が嗣ぐ。享保五年(1720)二月に六十五歳で卒し、四月養子・壹岐守直方が嗣ぐ。十五年(1730)三月大番頭となり元文元年(1736)五月致仕。養子・下總守長擧が嗣ぎ、寛延二年(1749)五月直方六十一歳で卒す。寳暦八年(1758)十一月長擧致仕し、養子・伊豆守長璉が嗣ぐ。天明五年(1785)十月長璉五十三歳で卒し、子・下総守長昭が嗣ぐ。文化十一年(1814)九月長昭卒し、子・伊豆守長發が嗣ぐ。文政五年(1822)十二月卒し、六年(1823)二月に養子・主殿頭長富が嗣ぐ。弘化元年(1844)十月致仕し、養子・下総守長知が嗣ぎ、名を長義と改める。明治二年(1869)版籍を奉還し西大路藩知事となり、四年(1871)七月藩を廃した。
参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)431、432頁