御園

樹木屋敷の北にある。むかし伊勢太神宮の御神領の地として、『神鳳抄』に尾張國清須御園・草部御厨・柿御園などがみえる。もとは御園も御厨もあった地で、御薗五郎左衞門尉という者も、この地に住んでいた武士である。康正二年(1456)造内裡段錢幷國役引付に、一貫五百文。御薗五郎左衞門尉殿尾張國御薗村散在段錢としるし、文安年中(1444-1449)御番帳の在國衆のなかに、御薗五郎左衞門尉と見える。また應永二年(1395)七月十一日御薗光宣の寄進状を妙興寺に所蔵するが、いずれもみなこの地に住んでいた人々である。

中島宮(御園神明)

同じ所にあり。現在は御園神明と称す。元来御園の地だったため、大神宮を勧請して祀り、祭神は天照皇大神、また天手力雄命・栲幡千千姫命を配祀する。

垂仁天皇の時代(紀元前か)に皇女倭姫命が天照皇大神を奉じて諸国を巡行されたが、尾張国中島の宮に三箇月居られたのはこの地であるという。『倭姫命世記』によると、垂仁天皇十年辛丑秋八月一日、倭姫は美濃の国伊久良河の宮に幸し遷り、四年祀りなさった。次に尾張の国中島の宮に遷座し、三箇月祀られた。倭姫命が国保伎を給う。時に美濃の国造等、舍人、市主、地口が御田をすすめ、また御船を一隻すすめた。同美濃の縣主角鏑、御船二隻を作りすすめ。船を捧る者。天曾己立。船を抱く者。天御郡張止て白して而進らせき友。采女忍比賣もまた地口・御田をすすむ。故かれ忍比賣之子繼天平瓮八十枚作すすめる云々。

当社縁起に、倭姫命が八節の竹杖を四折にして、 四方に投げられると、 八竿の竹生じたという。その竹を御園とう理由を記す。(御園は大神宮の御菜園なので、竹に由来する名ではない。)農長三年(1598)秀吉が病気の時、清州明神へ御祈願の御使を立てられたので、当所の三社で、山王・上畠・当社ともに御祈は修したが、とりわけ当社にはその時の證文を伝え、また大政所どの・政所どの等の造営寄附の品等も神宝の数に入っている。

  • 攝社倭姫皇女社
    瑞籬のうちにあり。倭姫命・國常立尊・瓊々杵尊の三座をまつる。
  • 船社
    美濃造・美濃縣主等が奉りし御船を祭れり。
  • 天宮
    天御中主尊をまつる。
  • 巴波天神
    菅丞相(菅原道真)をまつる。むかし五條川の波の渦の文があった頃から、この神影がうかび出たのでこのような名付く。性高院君が当社へ御参詣された時、巴波天神に連歌の御会たあったと言い伝えられている。また二月二十五日の祭礼に、梅花をたてまつる式等の古雅なるも伝わっている。
  • 芭蕉天滿宮
    近年の勸請。
  • 鳥居崎
    むかしの大鳥居の跡。当社七鳥居の廃跡、この一所のみ残る。俗に御園七口という所である。
  • 例祭
    二月九日・七月七日・八月二十三日・九月十六日・十一月(日並不定)。そのうち二月は御鳥上の神事といって、当社の大祭である。たまごの大きさの餅を九つ、烏に投げ与える。この日はむかし天照大神がこの地にお越しになった時、 鳥が来て神饌をつついたことから起こるという。
  • 神寶
    古い仮面はむかし舞楽に用いたという。また天滿宮一代記畫入卷物は、朝日殿の寄附。その他、当宮縁起一卷・福島正則寄附状二通・池田輝政祈祷状二通・秀吉公御煩御祈祷書付等がある。また当社に古い繪馬が二枚あり、一枚は日月星の三光に神酒を備える図で、『慶長八年(1603)九月御神施敬』の文字が見える。一枚は松の画で、『元和九年(1623)五月尾州名古野』 とある。いずれも古くなり、 図画とも定かにみえない。

『尾州舊話略』に、慶長十七年(1612)八月、清須町中近辺から民踊を興行し、御園神明で群集となり市の如し云々。『張州略記』には、慶長十八年(1613)甲寅八月十八日云々、伊勢外宮の大神、同国野上山へ飛び移り、また山田へ還座したなど、俗説さまざまであるが、これより伊勢踊と称し、諸国を狂せるが如く、実に希有の珍事である。清洲の町中近邊より誦を興行し、御園神明の社地にして群となる。冬に至っても止む事がなかったとか。その頃、半井卜養の狂歌に、『わが君をこゝでまつ坂いせをどりそこらではやせまかせしめ帶』。この踊りを松坂踊ともいったという。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

清須市一場734番地
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