厚見郡切通村のなかに、古くから長森の地名がある。文治(1185-1189)の頃、渋谷金王丸が住んだ所という。

土岐弾正少弼頼遠が、建武・暦應頃(1334-1342)、美濃守護となり土岐郡大富から移ったという。頼遠の兄の土岐周濟坊が、頼遠の跡を継いで総領となりここに居城したが、貞和五年(1349)に戦死した。革手城に移るまで土岐氏の居城だった。

土岐氏の出自

もとは後鳥羽院の西面の武士であった土岐判官光行が、池田進次郎の子を討った功により建保四年(1216)左衛門権尉に任ぜられ、やがて美濃守護となったことが始まりである。

中興の祖の土岐頼貞は、執権北条貞時の娘を母に持ち、足利尊氏に属して総領として勢力を誇った。建武二年(1335)十月、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した際、土岐氏は尊氏に従った。翌年(1336、延元元年)六月、尊氏が佐竹次郎義基の勲功を賞して美濃国山口郷・有智荘・弾正荘を与えた際、執権の高師直は土岐頼貞にその処理を命じている。ここから、以前より土岐頼貞が美濃国守護に任ぜられていたことが分かる。

頼貞の子・頼清は池田郡小島に居住し、伊予守に任じられたこともあったが、延元元年(1336年)六月一日、父に先立って摂津国芥川で没した。そのため、弟の頼遠が二代目として家督を継ぎ、土岐郡大富から厚見郡長森城へ本拠を移した。一族は「土岐たえば足利たゆべし」「御一家の次諸家の頭たるべき由」と尊氏から重んじられたが、頼遠は傲慢な振る舞いが多く、康永元年(興国三年、1342)八月夜、東洞院で光厳上皇に不敬を働き、斬罪に処された。

頼遠の死後、三代目となった頼康は美濃・尾張・伊勢三ヵ国の守護となった。そして居城を西南の革手城へ移していった。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)

岐阜市切通丁目番
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