※詳細な場所が不明なため、清須市朝日に置く。
朝日村にあり、幕末頃は民居となっていた。この人は高臺寺政所の母で、当所の住人である。『太閤秀吉出生記』に、秀吉本妻は、同国津島という所の浅野弾正従弟で、浅野又右衞門という徳のある人の姪で、また右衞門妹の娘である。父は明らかでない。母は同国朝日村の住人だった。後に朝日殿と称したという云々。秀吉は1537生。
右朝日殿の位牌は、東山高臺寺の塔頭旭雲院にあると見え、『續王代一覽』に、大政所は太閤の正室、杉原助右衞門入道道松の娘で、木下肥後守家定の妹御寧、或いは尾張国津島浅野又右衞門の娘という。また右衞門妹の所生にて、父は不明。母は後に朝日殿といい、康徳寺尼といった。朝日とは尾張国春日井郡の地名で、清洲の東にあり云々と記されている。
※同所にあったというが、現在は不明である。
名古屋吉田町浄念寺の旧地である。慶長五年(1600)家康が会津征伐の時、東本願寺教如上人が陣中御見舞として、東国へ下向したが、石田三成はそねみ、上人の帰洛を狙って、道で射殺しようとする。その時、浄念寺常信も上人の供でいたが、下野の小山の御陣から、道々の領主へ家康の命があり福島正則の領地の清須までは故障なく旅行できるが、大垣で石田が遮り通せない状況であるので、常信はひそかにこの寺まで伴い、彼の親族の土方彌五右衞門・土方藤蔵兄弟は、岐阜中納言の家臣だったので、それらが紹介して中納言殿に託し、岐阜まで伴い、七八日かの城中に逗留させ、秀信卿より三成へ御談合され、かろうじて石田の残害を逃れ入洛されたと、浄念寺の古記及び萬治四年(1661)三月印行の『本願寺系圖』に見える。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)