遺跡の中心に不破の関病院があり、住宅や工場、畑地にも広がっている。

出土遺物と時代的背景

出土遺物は磨製石器、叩き石、石匙、石鏃、剝片のほか、縄文晩期(五貫森系)土器片、弥生土器片、須恵器片、鉄器片、鉄滓(おり)、耳栓、獣骨などである。 当遺跡では精錬・鍛冶活動を示す鉄滓と鉄器片の出土が多い。弥生時代後期から鉄器が石器にとって代わったので、縄文時代後期、弥生時代、古墳時代、奈良時代を中心に栄えた事が窺える。

鉄滓の化学分析と鍛冶活動

出土した鉄滓を化学分析したところ、鉄製品を鍛造する際に火床の中で生じる鍛冶鉄であり、鋼や銑を精錬する際に発生した精錬滓でない事が判明した。以前、不破の関病院の西の凹地(現在は埋立られて武田機械が建っている南側の土手)から焼土が見つかり、国道二一号線の工事ではその周辺から多数の砂鉄やくず鉄が出土した。西の凹地で精錬し、精錬した銑を使用して東の台地で鍛冶を行い、精錬・鍛冶の遺跡だと推測される。

鉱脈と原料供給

南宮山の裏手に「金掘り」という地名があり、昔から鉱脈があった。また赤坂の金生山では赤鉄鋼の鉱脈が存在する。

以下、八賀晋著『「不破道を防ぐ」考』(『論苑 考古学』1993)


金生山の南端近く、標高150mから200m付近(大垣市南市橋町字七曲)の頂部には、ほとんど露頭する赤鉄鉱の鉱脈が丘陵を横断するように東西にみられる。石灰石を包み込むように、幅40mから50m、高さ20m、長さ300m以上も脈として存在する。この赤鉄鉱は戦時下、軍の注目するところとなり昭和一九年から採掘が始まり、戦後の昭和二五年まで採掘が続けられ、すべて北九州八幡製鉄所に送られている。この赤鉱脈は極めて良質で、第二酸化鉄Fe2O3としては92%に達するという高品位の分析値を示している。現在はほとんど掘り尽くされているが、現在も石灰石の間に幅2-5m、高さ8mにわたって顔をのぞかせている。採掘の現場は人頭大の赤鉄鉱の塊が散乱するが、良質の赤鉄鋼によるため、風化して粉状になった赤鉄鋼は、いわゆるベンガラとなって赤褐色の河原状になるという特異な景観を呈している。

現在、鉱脈のほか全山石灰石採掘のため、削り取られているが、旧前、赤鉄鉱の鉱脈の部分の山肌は周囲の斜面と比して大きく掘り凹めたような景状であったと、現地採掘者の言もあり、軍の採掘以前に鉱脈の採掘があったと伺い知ることができる。

この赤鉄鉱は鉄Feとしての容量分析は64%と高く、赤鉄鉱としての鉄の容量の最高位に近い数値を示しており、鉄を生産するにあたって、原料鉱石としてはきわめてハイレベルにあるといえる。ちなみに古代史上しばしば登場する砂鉄についてみれば、その成因が安山岩や花崗岩などの岩石中に含まれる鉄鉱物が、岩石の風化分解によって分離し選択されて集積されたものにほかならないが、この砂鉄中に含まれる鉄Feも大体20-40%ほどである。


『不破郡史』によると岩手地区大石でも鉄鋼石が産出され、近辺から原料を産出していたと考えられる。

伊福氏と製鉄伝承

古老の話によると、日守には昔、日守長者が住んでいて豪奢な生活をしていたようだ。この日守長者は伊富岐神社を祖とする伊福氏の一族と考えられる。かつては伊富岐神社を氏神とする伊福氏一族が野上・日守・伊吹地区一帯に勢力を持っていたと考えられる。「伊福」という氏名は息吹きに由来し、古代の製鉄で高熱の火を得るための送風装置である踏鞴(ふいご)をつかさどる職業名に由来するとする説がある(『壬申の乱と湯沐邑』前川明久)。日守地区は伊吹颪(おろし)の強風が吹き、以前は凹地や谷川があり、これらの自然条件を利用して製鉄が行われたと考えられる。

参考
『新修 垂井町史 通史編』(垂井町、平成八年)70-75頁

不破郡垂井町