六斎市

毎月一と六の日に開かれた。史料上の初出は寛文七年(1667)だが、織田信長が小牧山城を築き、城下町が形成された永禄期にさかのぼるのではないだろうか。

毎月三月十六日から四月十六日まで馬の売買を行う駒市が行われた(『寛文覚書』)。尾張藩二代藩主・徳川光友の家来が三河池鯉鮒(現知立)宿の駒市に行くと、駒市の者が自分達の城主が馬を一覧しないといかなる者にも見せる訳にいかないと言われ、光友は不快に思い自領に駒市を立てたという。

藩は駒市の振興策として、無利息の金百五十両を毎月十一月上旬に下付し、翌年八月に返却させたが、次第に減額され、享保年間(1716-35)に下付が中止された。元禄・宝永の頃(1688-1710)より馬の需要減少で駒市は次第に衰退し、正徳の頃(1711-1715)には中止された。その後も、駒市として市は続けられ、諸商売が許され芝居興行も行われていた。

駒市の期間中は茶屋女(遊女)も許され芝居など興行もあった。また従来六月一日より行われた神明社の祭礼も、寛文七年(1667)以降は駒市の初日に合わせて三月十五日夜に試楽、翌十六日に山車二台を曳く形に改められた。

明治末には、陶磁器・篭類・桶類・呉服・雑貨・青物・鳥などを扱う「小牧市」、野菜・果実・芋類を専門に扱う「青物市」、さらに明治中期に加わった「鶏市」の三市が開設されていた。青物市の開設場所は、当初各所に散在していたが、明治三十年頃横町の戒蔵院附近に統合された。さらに、明治四五年には中町に移転された。

幕末頃は小牧の経済活動は、質屋、髪結、大工、鍛冶屋、桶屋、綿打屋、宿屋を中心としたものだった。明治中期以降になると商業活動は活発になり、明治二一年には、旧小牧村の商業戸数は全戸数の19%を占めるに至った。明治中期には紫雲英(レンゲ)実卸商の紫雲社、煙草仲買商の大草煙草会社、穂積合名会社、鶏卵販売の江崎合名会社など農産品販売の会社や、酒・酢・油といった農産物を加工原料とする企業の設立が多くみられる。

一方、明治十九年に、木津用水の水運を利用して愛船会社が設立された。愛船会社が、味岡などに五支店をもち、五隻(五十石)の和船によって、米穀・食塩・肥料・石炭・雑貨を運搬し、売買するという特異な存在であった。

参考:小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)185-186、517-519頁

小牧市小牧5丁目123番地
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