佐々木秀義が伊豆の三嶋大明神を崇拝し、勤請した。

古代の近江国蒲生郡に狭々城(ささき)山君という豪族がいた。なお、現在の蒲生郡安土には紗々貴神社がある。一方、平安時代中期に、宇多天皇の皇子敦実親王の養子扶義(すけよし-源雅信の子)が、近江・河内・安芸・美作守を歴任し、子成頼は父の任国の所縁で近江国蒲生郡佐々木荘に住みついた。彼らは土地の名から佐々木を苗字として、古代からの豪族佐々木氏と血縁を結んだとされる。

その後、佐々木秀義が保元の乱・平治の乱で源義朝に従った。平治の乱で敗れた秀義らは奥州藤原秀衡(ひら)を頼ろうとしたが、相模国渋谷庄司重国の元で二十余年身を寄せることとなった。当時、伊豆の蛭ヶ島(川の中州)に源義朝の子、源頼朝が流されており、佐々木秀義は出入りしていた。
頼朝は平家方の伊豆国の目代(国司の代わりに政務)の山木兼隆を襲撃した。八月九日反平家の挙兵の動きを佐々木秀義が頼朝に知らせた。伊豆一宮の三島神社の大祭で山木兼隆の郎従は出払っていた十七日夜半。頼朝は北条時政の館に残り、佐々木秀義の子息ら手兵が攻撃に向かう。明け方近く兼隆邸に火があがった。未の刻(午後二時)、佐々木定綱・経隆が疲馬にむちうち、盛綱・高綱が徒歩でかけつけ、頼朝は感激、涙を顔に浮かべたのであった(『吾妻鏡』治承四年(1180)八月十七日条)。頼朝の第一の挙兵は成功し、幕府成立後も佐々木氏と頼朝と密接な関係を持った。

『神略記』には秀義が伊豆の三嶋大明神を崇拝して勤請した事が書かれている。また一説には大原庄の大橋氏の祖、佐々木重綱(秀義の曽孫)が勤請したともある。

『神略記』から
佐々木源三秀義源頼朝に随従して、伊豆国にあり、常に三嶋大明神を信仰し、源家の運を祈らんため、百日参籠せり、諸願成就して、然後秀義此地に勤請し奉る、時に元暦元甲辰年四月三日也、毎年神事四月三日恒例とす、相殿に所祭の八幡宮は相模国鶴ヶ丘の八幡宮を勤請する所也、又椎根津彦命は此村の古昔よりの産土神也

参考:山東町史編さん委員会『山東町史』(山東町、平成三年)211-216頁

米原市池下
種別