惠那郡岩村の城は、当国第一の山城にして、 ◎苗木と同じような地形である。
往古、文治元年(1185、己巳、一説では建久六年-1195)三月、右大将・源頼朝公より加藤次藤原景廉が遠山庄地頭に任じられ、嫡子・景朝は岩村に住み遠山氏と称した。
そもそもこの景廉という者は、その先祖の藤原魚名卿より六代の孫にあたる鎮守府将軍・藤原武蔵守利仁の子・叙用、その子・加賀守吉信、重光、加藤滝口貞正、加藤修理少進景通、その孫・加藤五郎景貞と続き、その長男を加藤太光員、次男を加藤次景廉という。曽祖父にあたる景通は源頼義の勇臣であり、奥州前九年の合戦の際、頼義・義家・坂戸判官則明・加藤景通・大宅太夫光任・清原貞広・首藤権介範季という「主従七騎」の名誉のなかに含まれる。景通の子・加藤右馬允景季や、同武蔵介貞輔らは、八幡太郎・源義家に従った。
特に景廉は、山木の館主・和泉判官を討ち取って以来、石橋山敗北の後の艱難の中でもなお忠節を尽くし、度々の武功が莫大であったため、頼朝はこれに感じられて、また美濃国の岩村を拝領した。
景廉は初め伊勢の人で、流浪して東美濃遠山庄に辿り着き、ある農家に身を寄せ、後に伊豆へ行き源頼朝に従った。景季の子・景貞、その子・光員と景廉の父子三人は、治承四年(1180)、頼朝が伊豆国において初めて義兵を上げた時、第一番に入った。景廉は島の目代・山木判官兼隆を征伐した際に兼隆の首を斬り、刃先に棒げて呼ばわった為、敵は四散したという。大いに功を立てた景廉は、所縁の地である伊勢国の守護を賜り、遠山庄(岩村)その他小蘓庄、遠州(浅羽庄)三河(河津庄)伊豆(狩野牧)上総(角田庄)甲斐(大原庄小松庄)備前(上鴨庄下鴨庄)等にて数ヵ所の荘園を賜った。実朝将軍の御代に至ると鎌倉幕府の評定衆となり、三代将軍・源実朝が亡くなると出家して覚蓮坊妙順と号した。
岩村城内の八幡宮は加藤景廉を鎮護の神として祀り、景廉が岩村城を創始者とされる。承久の乱(1221)では景廉は鎌倉にいて、実子・景朝が朝廷側・一条信能を岩村で首をはねており、岩村に住み城を築いたのは景朝とされる。
承久三年(1221)八月三日、遠山荘地頭檢非違使従五位下左衞門尉藤原景廉、六十七歳で没す。五子(景朝・尚景・景長・景義・景経)あり、太郎景朝は岩村に住み、遠山左衞門尉という。子孫は繁栄して恵那全郡を領するに至り、土岐氏と並んで当国の著族となった。(『尊卑分脈』『東鑑』)
『尊卑分脈』『東鑑』並びに『系圖纂要』等によれば当国関係の家系は以下。
鎌倉時代の末に至って明智遠山景房は、恵那郡内所々の地頭職を安堵される。また足利尊氏に従って戦功を励む。
下令早遠山孫次郎景房領知美濃國手向郷内明智・上下村・荒木村・窪原・佐々良木・安主名等知行之所々地頭職之事
右人任先例之旨領掌不可有相達之状如件
元弘元年七月 日 (慶元古文書)
今、岩村の城内には八幡宮の社がある。これはすなわち、かの景廉の霊を祀る所であるという。一説には、景廉は藤原氏であり、この霊を祀る時には必ず春日大明神を祀る。八幡は源氏の祖神である、ともいわれている。『遠山来由記』によれば、 岩村城内八幡社祠中に景廉の真影があり、座像の長さは一尺一寸(約33cm)、黒冠を戴き、黒服を着て、手に笏(しゃく:神儀で使う細長い板)を持つ。また宝殿に鎧一領を蔵し、景廉を被った時の甲胄であると。なお、嘉禎元年(1235)八月景義は、兄景朝と伊豆国狩野荘内の牧郷地頭職を争って敗訴したが、景朝が父の遺産の幾何を継いだかは明らかでない。(『東鑑』)
考えるに、右大将・源頼朝が久安三年(1147、丁卯)正月元日、尾張国の幡谷で生まれた時、大空から白旗が一筋、その産屋の上に舞い降り、のち白雲となって消えたという。これによって幼名を白幡丸といった。そうした理由からであろうか、あるいは源氏の祖神であるからか、頼朝は生涯のうちに特に八幡宮を信仰し、諸国の神社の中でもとりわけ八幡宮に対しては、度々の寄進を行うことが多かった。さて、常に八幡の像を所持し、朝夕に深く信仰していたが、正治元年(1199)正月十三日に逝去した。その際、加藤景廉を近くに呼び遺言を伝え、所持していた八幡の像を授けた。「我が信心の余営を受け継ぎて、子孫永く崇敬なしくれよかし」云々。件の岩村の城内に祀る八幡宮は、頼朝所持の像であって、景廉自らが祀った神社なのであろう。決して景廉の霊などでなく、誤って論じるべきでない。
さてまた一説によれば、この岩村の城を「霧ヶ城」ともいうという。その訳を尋ねてみると、もしこの城に変があり敵が攻め寄せることがあれば、前後の谷々から霧が下り、風雲立ち起こって間近も見えないほど覆い尽くし、敵に害をなすと言い伝えられているという。そのためであろうか、武田信玄や子の勝頼ほどの者でさえ度々攻めかけたといっても、ついにこれを落とせなかった。昔は水の手がなかったけれども、小宇津の代より水の手を設置したという。兵糧さえ沢山あれば、いかなる大軍で攻めたとしても、容易く落ちることはないのである。
景廉没後は城主も断絶して長く住む者はなかったが、遥かに年を経て建武・延元の頃(1334-1340)、土岐氏の一族の小宇津美濃守という者が一代住んで、その後はまた空き城となった。その後、遠山加藤太景政がしばらくここに住んだ。遠山氏とはすなわち、加藤次景廉の末裔である。
さてまた、永正から大永・享禄・天文の頃(1521-1555)には、土岐氏の一族の岩村筑後守清次という者が住んでいたが、死んだ後は遠山内匠助友通がここに住んだ。また、同郡恵那郡の◎苗木城には遠山久兵衛友忠が、同郡の明地城には遠山勘右衛門友治が住んでいた。これをその頃、「恵那郡の三人衆」といった。また「三遠山」ともいう。もっとも、同国美濃の可児郡にも「明智」がありが、恵那郡は「明地」である。ともに紛らわしく、決して誤ってはならない。
そうしたところ、この岩村の城主・遠山内匠助の内室は、織田信長の伯母(信長の父の信秀の妹)であった。しかし、この夫妻の間に男子がなかった。これによって、信長の六男・御坊丸(のち信吉)を養子として家督と定め、栄えていた。しかし内匠助は、日頃から病が多く、元亀二年(1571、辛未)十二月三日、ついに世を去った。家督の御坊丸は幼少であったが、かねての約束であったため、乳父の五十若久助勝貞という者が彼を盛り立てて城を守っていた。
ここに信濃国伊那郡◎高遠の城主・秋山伯耆守源晴近という者がいた。これは清和天皇の七代の後裔・新羅三郎義光の孫、逸見黒源太清光の子、加々美二郎遠光の嫡男・秋山太郎光朝の末裔である。代々甲斐武田家の一族として、無二の配下であった。もとより勇猛絶倫の武士であったが、これより先、武田信玄の命を受けて美濃へ侵攻し、岩村城を攻め落とそうとした。これはもとは信玄の計略で、織田信長とはこれまでは親戚の間柄として書状を通わせる仲ではあったが、信玄には大志があり、信長と不和になるために、美濃へ侵攻したのである。この時、秋山伯耆守は、自らの手勢を整えてあわせて三千余人の兵を率い、◎高遠から出陣して、元亀元年(1570)十二月中旬、初めて美濃国へ入ったのだった。
対して、東美濃の諸将である恵那郡岩村の城主・遠山内匠助友通、同明地の城主・遠山民部友春(入道宗春)と子・勘右衛門友治、同郡◎苗木の城主・遠山久兵衛友政と子・久太郎友忠、同郡◎串原の城主・串原弥左衛門親春、高山の城主・平井宮内少輔光行と子・頼母光村、同郡◎飯羽間(飯狭間)の城主・飯羽間右衛門尉重政らをはじめとし、東美濃・西三河の者共が集まり五千余人の兵となり、防戦の用意をして、十二月二十八日、恵那の上村という所で秋山の軍勢を迎え撃ち、合戦が始まった。
この時、秋山は三千余人の兵を五備(五つの部隊)に分け、先頭としんがりを固めた陣(魁兵要の陣)を敷いて、火花を散らして戦う。自ら五百余人を率い先頭(魁勢)と定め、これを先駆けの備えとし、次に兵勢を定め左・右・中の三備に分け、中備は望月与三郎信重、左は原藤吾昌定、後ろ(右)は芝山主水且春を置き、それぞれ五百余人ずつ、この兵をもって敵と戦わせた。後陣には松本右京亮長継が雑兵を率い、一千余人をもってしんがりと定まった。これらの五段が互いに後方を固め、次々と押し出す。
一番に遠山方の串原弥左衛門親春が一千余人を率い、間近まで進み寄り一通りの鉄砲を打つと、直ちに足軽組子をたたみかけて斬り結ぶ。秋山が二陣の兵勢と定めた中備・望月与三郎は、五百余人で駆け向かい、槍を入れて突き交わす。串原も勇気を奮い、なんとしても敵を追い破ろうとする。望月はここぞと敵の勢いを見て、逃げるも退くもなく、串原の矛先に押される体でもてなし戦いつつ、二、三町ほど退いた。串原は、得たりと気に乗って勢いに任せて進んでいたが、望月はまもなく足場良しと見定めるや、ここで左右に合図を送り、左右の二隊である原・芝山が五百人ずつ駆け向かい、両方から鎗を入れて突き崩す。こうして串原勢がたちまち乱れて破れれば、望月は再び勇気を奮い正面から激しく駈け立て、串原勢はますます乱れて散々になって敗走したのであった。
この時、岩村の遠山内匠助も同じく一千余人を率い、串原の後に進んで先手を助け、陣を交替しようとしていたところ、早くも串原が敗れ雪崩れかかってきたため、戦おうにも力なく、それでもなんとか立て直そうとあれこれ支えていたところへ、武田の軍兵が三方より押し寄せてひた攻めに揉み立てたので、ここにおいて串原・岩村の軍勢はことごとく崩れ、右往左往して敗走していった。
この時、明地の遠山民部入道宗俊は後陣を守り、指示を出していたが、先手の崩れたのを見て部隊を進めて戦おうとしていた。しかし、魁勢と定めていた先駆けの一手・秋山伯耆守が、五百余人を率いて谷を越え、切所を通り抜け、思いも寄らず相手の右の方から遠山勢へ突きかかり、ひたすら切り崩したため、遠山勢は大いに慌て、軍勢はたちまち四分五裂となった。そこへ、はるか後に控えた三陣の要備(しんがり)の松本右京亮一千余人の勢が、急に押し来たという体でただ鬨の声をあげて打ってかかる様子を見せたので、遠山勢はこれを見て耐え兼ね、ことごとく破れて敗北したのであった。
秋山は命じて、追いかけ追いかけ追い討ちをかけ、遠山入道宗俊をはじめ、角野高四郎繁氏・同磯之助氏幸・同覚八氏益・多性子宮内義正・田代弾正・小泉義左衛門・吉村源蔵といった者はことごとく討死し、そのほか◎苗木の兵も三十余人が同じ所で討死した。秋山は十分に勝ち、数多の首級を得て甲府の武田信玄へ進上した。美濃においては、三遠山をはじめ、坪内作蔵定国・同式部国鑑・倉橋与五郎ら以下、ならびに西三河の軍勢である作手の城主・奥平美作守貞能と子・九八郎貞昌、田峯(駄峯)の戸田以下の面々も、秋山の矛先の鋭さに当たりがたく、みな居城へと逃げ入ったのであった。
さて、秋山乱入を遠山内匠助方より◎岐阜へ注進し、「早く御勢を賜るべし」と申し送った。信長はこれを聞いて驚き、急ぎ秋山を追い払うべしと、その地の案内者・明智十兵衛光秀に命じられた。しかし光秀は、その頃近江より帰陣した後で疲労も少なくなく、その伯父・光廉入道長閑斎が軍勢を率いて恵那郡に着陣し、現地の諸士と一手になって、同十二月二十九日、秋山と対峙して小田子村において合戦したのである。長閑斎は秋山の戦法をよく知っており、その裏をかいて四、五ヶ所に伏兵を仕掛け、一戦のもとに秋山を切り崩し、火攻めをもってことごとく追い立てた。ここにおいて、さしもの秋山も大いに後れを取り、散々に打ち負けて早々に信州へと退いたのだった。よって長閑斎も早々に◎岐阜へ帰って一戦勝利の旨を注進し、東美濃もしばらくは静謐に至った。
織田信長は上方の敵との戦いなどがあって、近江・越前あるいは五畿内などへ出陣した際には、◎岐阜の留守を窺って秋山に時々乱入の動きもあったものの、岩村の内匠助が大いに心を尽くして防いでいたため、いずれも恵那を収めることはできなかった。
そうしたところ、元亀二年(1571)の十二月三日、遠山内匠助が病死した。秋山晴近はこのことを聞き非常に喜び、「さては心やすし。今こそ岩村を攻め取るべき時至れり」と大いに勇み、即時、大軍を率いてまたまた信州高遠から乱入し、岩村の城を攻め立てた。同年十二月の下旬のことである。しかしながら岩村では、大将がすでに死去したとはいえ、家督・御坊丸の乳父・五十若久助勝貞がもとより勇猛の士であり、全く恐れることなく後室(未亡人/内匠助の妻/信長の伯母)を諌め励まし、幼君・御坊丸を守りたてなおも激しく防いでいたのであった。
秋山もまた激しく攻め立てたものの、落城する兆しも見えぬままであった。ここで秋山は深く思慮を巡らし、和平の儀を計って無事に城を受け取ろうと考え、やがて岩村の地侍である坪内靱負国宗という者を引き入れ、口上の趣旨を申し含めて城中に入らせ、後室に対面して申させた。
「晴近いまだ定まる妻なし。よって今より御身(あなた)を室嫁として、御坊丸をこれまでの如く養子となし、秋山すなわち当城主となり御坊丸をとり立て、始終(最終的に)是に家督を相譲るべし。願わくは某が心(なにがし/私の心)に従ひ給はんや。もし得心なくんば、やむなく多勢をもって攻め崩し、御身も御坊丸もともに苦しき死を与うべき」
後室もこれを聞いて、さすがに固い木石のようでなく、女心の果敢無きゆえか、妻となることを喜んでついに秋山の意に従ったのであった。これによって和睦が整い、城を渡して秋山を迎え入れたのだった。
そうして秋山は、後室を言葉巧みに騙してこのように言った。
「某、今御身と、夫婦の結縁をするの上は、武田信玄老この事を聞かれなば、晴近こそ、信長の伯母聟と相なりしなり。然らば(武田)家を背き、信長に志を通ぜんは必定なるべし。早くこれを誅すべしと怒りて、軍勢を差し向けられん事は計り難し。しかる時は難儀なるべければ、信玄殿の心を休め、疑をなからしめん為に、養子の御坊丸を人質となして、甲州へ送り遣し、預け置くべし」
後室も、御坊丸のことは実の我が子ではなく、さほど可愛いと思う気持ちもなかったのだろう、これまた拒むことなく納得してしまった。秋山は喜び、すぐさま御坊丸を甲府へ送り、「これは信長よりの人質なり」と申し、一連の手だてを書き送ったのだった。時に御坊丸は七歳。
織田信長はその次第をお聞きになったものの、その頃はちょうど上方で戦いがあり、これを討伐する余裕がなかったため、無念ながら秋山の狼藉の振舞いを捨て置いていたが、時説を得てこの憤りを散らすべしと心に掛けていたのであった。甲州では、武田信玄が人質の御坊丸を受け取ってたいへん喜び、武田左馬助信豊にその身柄を預けた。そして岩村の一城は秋山に与えて城主とさせたのであった。しかし、秋山の勢力だけで岩村の城を守るのも難儀だろうと、加勢として同じく信州の住人である座光寺左近之進晴友、同勘左衛門晴氏、同与市、大島杢之助義重、同織部義安らを差し遣わし、ならびに現地の城兵である遠山五郎友長、同市之丞、同次郎三郎、同大膳、串原弥兵衛ら合わせて三千余人の勢でもって守らせた。ここにおいて岩村の一城は、ついに武田方の物となり、秋山伯耆守の居城となったのである。元亀三年(1572)の春のことである。
しかしながらその後、武田信玄は足利将軍義昭公の御教書を得て喜び勇み、早々に上洛して天下に旗を上げようと欲し、天正元年(1573)三月九日早朝に甲府を発ち、自ら四万余の大軍を率いて美濃恵那郡へ出陣し、織田を破って上洛しようと議決した。
織田信長はこれを聞き、「武田が軍勢を我が国に差し入れ、今は捨て置くべきにあらず。早く駆け向かって一戦に追い払うべし」と、同十四日、二万余の軍勢を率い岐阜を出発して東美濃岩村へ向かわれ、初めて武田勢と合戦をしたのである。その翌日、双方が矢を放ち合って戦が勃発した。武田方の老臣・馬場美濃守信房が手勢一千余人を以って第一番に進みかかり、蛇籠の馬印を押し立て織田勢に突っ込む。これを見て織田方から、佐々内蔵助成政が菅笠三蓋の馬印を押し立て向かい合い戦う。同じく河尻与兵衛重遠は金の釣鐘の馬印、池田勝三郎信輝は金の三本傘の馬印を掲げて進みかかり、そのほか敵味方いっせいに部隊を出し、離合集散して激しく挑み戦う。すでにこの日、辰の上刻(午前八時頃)より合戦始まり、申の中刻(午後四時頃)まで終日戦いにあけくれ人馬の疲れも少なくなく、双方ともに引き分けとなって引いて陣を張った。
これより互いに陣を守り、敵味方対陣してどちらも打ち出ず、合戦もないまま四、五日ここで睨み合っていた。信玄はここから直に陸地を経て早々に上洛しようと思っていたが、信長が美濃・尾張の間で立ちはだかり通させまいとしたため、信玄もたやすく上り難いと、これより信長を抑え留めておいたうえで三河方面を切り従え、吉田の城を攻め落とし、そこから船を求めて海上を経て伊勢長島に上陸して上洛しようと考えた。そこで秋山伯耆守に信長を牽制させ、信玄は馬場・山県以下に命じて、三月二十日に岩村を引き払い三河へ退き、そこから直ちに鳳来寺へ向かって牛久保・長沢・御油等まで手を広げて岡崎方面へ進出し、徳川の臣下・酒井左衛門尉忠次が籠もる吉田城を攻め落とそうと押し寄せたのであった。だがその時、信玄は不運なるかな、戦の中で矢傷を負い、痛手となって病み苦しみ、三河国内で攻勢に出られず、根羽弥という所に至って陣を張り、ここで傷の養生をしていたが、その後、四月十一日に死去したとのことである。
さて、信長も岩村に在陣していたが、信玄がすでに三河へ引きとったため、ひとまず安堵し、「然らばこの方も帰陣すべし」として、三月二十四日に岩村を引き払い、岐阜へ帰城なさった。しかし信玄はついに死去したといえども、忠臣らはこれを公表せず深く隠して、病と偽って少しも死去を外に知らせず、武威もまた決して落とさずにますます盛んに見せかけ、内々で四郎勝頼を家督として臣らが盛り立て、以前と変わらず威勢を振るったのだった。よって秋山伯耆守も、主君信玄が死去したとはいえ、その事は他所へ一切漏れなかったため、相変わらず岩村城に留まり、少しも武威を衰えさせることがなかった。
信長は、秋山夫妻を憎み、早くこれを討伐しようと思っていたが、何かと上方に敵がありその余裕がなかったため、しばらくそのまま差し置いていた。しかし、岩村の近隣に小さな城を一つずつ構えさせていた。東美濃には織田方の諸将が多くあったため、信長はこの面々に命を下し、十騎・二十騎ほどの加勢を与えて頑丈に守らせたり、新たに砦を築かせるなど、およそ十八箇所の城砦を構えて兵士を籠め置き、岩村城の抑えとさせた。
いわゆるその面々とは、恵那郡高山城には平井宮内少輔光行が居城としていたが、宮内は先年死去してその子・頼母光村が七百余人で守り、同◎苗木城には遠山久兵衛友忠が居城として一千余人で守り、明地城には遠山勘右衛門友治が居城として守っていた。同◎串原城には串原弥左衛門親春、同◎飯狭間城には飯狭間右衛門尉重政、土岐郡◎妻木城には妻木彦右衛門範重、同兼山城には森勝蔵長一の留守代が配されていた。そのほか、恵那郡東野城・久須元城・阿木城・孫目(馬籠)城・大井城をはじめとして、田瀬・鶴井・瀬戸・振田・中津川・幸田・大富・千檀村など、すべて合わせて十八箇砦あった。
高山・◎苗木・◎串原・香野(神箆)・今見(木曽)・阿寺(現中津川市手賀野)・孫目(馬籠)・大井・◎鶴居(鶴城)・瀬戸崎(苗木東瀬戸邑)・振田(阿木村久須田)・中津川・幸田・◎妻木・大羅(大波羅)・千駄皈(千旦林)・明知・◎飯峡。(『府誌』)『美濃御坂越記』には落合丸山城、落合霧原城、中津川徳城、福岡広専寺城、茄子川城、正家城、◎佐々良木城、野井城等も。
武田四郎勝頼はこれを聞きいて心やすからず。「しからば早く濃州(美濃)へ出馬して、かの小城どもをことごとく攻め滅ぼすべし」と、甲斐・信濃・飛騨・越中・西上野の軍勢を率いて、三万余人でもって天正二年(1574)正月二十七日、甲府を出発して東美濃に着陣した。こうして勝頼は恵那郡に着くや否や、二月二日、まず第一番に高山城を攻め落とし、それから◎苗木城をも攻め落とし、さらに◎串原・阿木・久須見(久須元)・瀬戸・大井・中津川・孫目(馬籠)・大富・振田・田瀬など、早くも十六箇所の城々をわずか四、五日のうちに攻め潰し、そこから直ちに遠山勘右衛門が守る明地の城を攻め落とそうと、猛烈な勢いで押し寄せたのである。
しかし織田信長は◎岐阜にいらっしゃり、「武田勢を追い払うべし」として、ご嫡男・勘九郎信忠に命じて差し向けられた。これによって勘九郎信忠は、在美濃の諸将である池田勝三郎信輝・蜂屋兵庫頭頼隆・川尻与兵衛重遠・森勝蔵長一・塚本小大膳安頼・中条将監家忠・安藤伊賀守守就・福富平左衛門貞次・高野作右衛門・斎藤新五郎長龍ら以下、三万余人を引き連れて、二月七日、◎岐阜城を打って出て、その日は御嶽宿に着陣した。翌八日には、明地の向かいの鶴岡という所に登り対陣した。ここを本須の若禰山という。
武田方としては、織田の後詰(救援)が来ることをかねて覚悟して、その受手として山県三郎兵衛昌景・大熊備前守昌依・相木市兵衛為三・朝比奈駿河守・三浦兵部丞ら一万余人で進み来て大草村に陣を取った。続いて二の手として勝頼自ら旗本を率いて進み出て、大草の郷に続いて一万余人にて「大草平」という所に本陣を構えて対陣し、残り一万は相変わらず明地城を取りまき攻め立てた。
武田の先将・山県三郎兵衛は、鶴田山の麓を左の方へ少し回り、隊を立て直して突きかかり、ここで敵味方入り乱れて大いに激しく戦った。織田方は利を失い、上道を三里退いて陣を取った。そうして武田勢は、ついに明地の城を攻め落とし、続いて飯狭間城をも乗っ取ってその猛威は辺りをなぎ払い、以下十八ヶ所の城砦をことごとく攻め落として喜び勇み、その周辺の支配は岩村の秋山に命じ置き、さらに加勢を添えて守らせ、同じく三月二日、恵那郡を発って三河の方へ引き揚げたのだった。これによって信忠も軍勢を引き揚げて帰陣した。ただし、武儀郡の高野と於里の両所に砦を構え、高野には河尻与兵衛を留め置き、於里には池田勝三郎を入れ置き、土岐郡鹿山には森勝蔵を差し置き、岩村を抑えさせ、◎岐阜へ帰陣なさった。
やがて、天正三年(1575)の五月、織田信長は徳川家と一手となり、三河長篠において武田勝頼と大合戦となった。この時、武田方は大いに敗れ、名のある武将共がことごとく討ち死にした。信長は大いに勇み、その勢いに乗じて直ちに岩村へ押し寄せ、城を攻め立てた。しかしながら、城を守る秋山以下二千余人は少しも屈する様子もなく、命を惜しまず防戦したため、寄手の大軍が数日激しく攻め立てたものの、落城の気配もなかった。そこで信長は諸兵に命を下し、城攻めをしばらく止めさせ、ただただ遠巻きに、兵糧が尽きるのを待った。これによって、天正三年(1575)の六月二日から城を攻め始め、十月に至るまで勝負の気配もなく、城を取り巻き日を送っていたのだった。
しかしながら城内の者たちは、秋山はじめいずれもたいへんな勇士であったが、この夏の三河長篠での味方の大敗以降は、どことなく心がひるみ、兵士たちも疲弊していたところへ、さらに厳重に城を取り囲まれたため、次第に兵糧も乏しくなり、落城が近くみえたので、秋山も「かくてはならじ」と、そこから甲州へ使いを立て、「早く後詰(救援)をなし給わるべし」と乞うた。しかし勝頼は、長篠で遅れをとって以来、優れた勇臣らがなくなっていたため、後詰も叶わなかった。
そこで勝頼は、信州木曽にいた妹婿の木曽左馬頭義昌に命を下し、二千余人の兵を以って後詰をさせた。しかし義昌も、織田勢の勇猛で勢いのある様子を見て恐れをなし、可児のあたりまでは来たものの、それ以上はあえて進めず、ただ虚しく日を送るばかりであった。
そのため岩村の城内は、いよいよ兵糧が尽きて難儀し、落ち行こうと思っても、織田の大軍が十重二十重に取り囲み、水も漏らさぬほどに遠巻きに囲っていたため、どこへも出る隙はなく、ただ呆然とするばかりであったが「かくては、城中、ついに飢え死になるべし。この上は命を捨てて打って出で、織田の陣に夜討ちをなし、ことごとく追い払うべし」と評議し、十月二日の夜、こらえかねて討って出て、寄せ手の陣へ夜討ちを掛けたのだった。織田信忠をはじめ各勢を繰り出し防ぎ激しく戦い、またまた城中へと追い戻した。もっとも、この戦において城兵のうち、浅利与三郎義益、遠山五郎友長、沢中左忠太光利、飯妻新五郎、小杉勘兵衛といった兵共が討ち死にした。また、後詰に来ていた木曽左馬頭も恐れをなし、木曽の福島へと引き揚げたのだった。
そうして、城中はいよいよ気力も萎え、兵糧もなくなっていき大いに難儀、困窮して、蓄えていた金銀財宝は言うに及ばず、鎧・兜・馬・武具に至るまで順順に取り出しては頼りを求め、近村の百姓どもを頼って売り払い、兵糧や塩・味噌などに換えて、かろうじてその日その日を送っていたが、これもまた長くなく。ついにはまたまたその手段も尽き果て、今やことごとく飢餓に直面して、なかなか城をも維持できなくなったうえ、後詰も来ないため、さすがの秋山以下の輩ももはやどうしようもなく、「この上は降参をなし、城を渡して落ち行くべし」と評議した。
十一月五日に至って、秋山伯耆守・座光寺左近之進・同勘左衛門・同与市・大島杢之助・同織部らは、笠を出して降参を乞い、「一命を助け給はらば、城を渡し申すべし」と詫びを入れてきたので、大将織田信忠はこれを聞き、「其の儀ならば、ひとまず父君に申し上ぐべし」と、このことを信長に言上した。信長、お聞きになり、「この期に至り、降参して命を生きんとは事おかしけれ。さりながら、まずその由を得心すべし。しこうして、かようかように相計るべし」と命を下した。信忠は畏まり、その由を味方の諸軍に示しつつ、「かくして(このようにして)降参承知せり。早々開城して、いずこへなりとも落ち行くべし」と申し送ったので、城兵は共にたいへん喜び、各々妻子や従類らを連れ城を出て、信州の方へと落ち延びて行った。時に天正三年(1575)十一月六日のことである。
この面々が続々と連なり、切所を越えて落ち延びていくところを、織田勢はこれをやり過ごしてから四方からひたひたと取り囲み、前後を断ち切って、ことごとく駆け立てたのだった。武田勢は大いに驚き、「さては信忠にたばかれたるか、口惜しや」と怒り憤り、必死となって戦った。しかし織田の大軍には敵い難く、ここでことごとく討ち取られてしまった。大将の秋山伯耆守は、織田方の蜂屋兵庫頭の郎党である勝山頓兵衛・同頓八兄弟によって生け捕られた。また座光寺左近之進・大島杢之助らも、池田・河尻の手に生け捕られた。そのほか、座光寺勘左衛門・同与市、ならびに城兵の遠山市之丞・同次郎三郎・同大膳・串原弥兵衛・高木十内・高坂求馬・深淵伝左衛門・久保原内匠・大船五六太ら以下は、ことごとく討ち死にした。
信忠は勝ち鬨をあげて喜び勇み、やがて三人の生け捕り(秋山・座光寺・大島)を引きたて信長のもとへ送り届けさせ、岩村城落城を報告なさった。信長は殊に喜び「内々秋山には多年の恨み浅からず、段々重なる存念ありしに、今こそ本望を達したり」として、すぐさま兵士に命じて秋山の妻をも共に捕らえさせ、「この夫婦の者共、不義を発し、我が子御坊丸を甲州に送りて人質となしつる事、その憎しみ止む間なし。因果歴然、その報い、思い参らせん」と言って、まもなく秋山夫妻を役人の手に引き渡し、十一月八日、岐阜長良の川原において両人を同じ所に並べ、ついに磔にかけて殺しなさったのである。
その時、かの秋山の妻室は、「我はからずも、女心の果敢なきゆえに、何心なく得心せし(納得した)とは言うものの、信長に為には、我現在の伯母なるぞや。かかる死を与うるまでには及ぶまじきに、情けなき非道の振る舞い、不孝とやいわん(ではないか)、大悪とやいわん。我はその罪許すとも、いかでか天が許し給うや。見よ見よ、追いつけ因果巡りきて、苦しき死に遭うべきよ(だろう)」と泣き叫び、声を限りに叫んで死んでいったという。
付け加えるなら、かの秋山の妻というのは、信長には実の伯母にあたる。いくら憎しみがあるとしてもここまでの惨い処置に及ぶべきでないのだが、夫の秋山と同調して御坊丸を甲府へ送った恨みなのだという。しかし、磔にまでする必要があっただろうか。信長の邪悪な心は甚大である、云々。実の伯母を殺すという罪は最も深い。古語にも、伯父は父に続く、伯母は母に続くなどと言い、不孝の罪は最も重い。御坊丸を殺した恨みであるならまだしも、ただ人質として送っただけに過ぎない。我が子への仕打ちに対する憎しみがあるからといって、父母に等しい者を殺すようなことは、かつてなかった。したがって、信長は時の運と、しばらくは恵まれた果報と凄まじい武徳によって、一旦天下の武将となられたとは言っても、天が憎しみがたまる時が来ればほんの少しの間も耐えず、後にその家臣・明智光秀によって父子共ににあえなく討たれなさったのは、このような罪や報いの数々が年々重なり、月ごとに増え積もり、ついには滅びなさったものなのである。「己の罪、己を責むる」は、この事を言うのだあろうか。
こうして岩村城がすでに落ち、信長は満足され、岩村の城は川尻与兵衛重遠に下し、肥前守にして城主とさせた。また毛利河内守秀頼には、同郡明地の城を下した。これはその前は、遠山勘右衛門の居城であった。さて蜂屋兵庫頭(出羽守という)には、旧領加茂郡蜂屋の城に一万石の加増を付け、守らせた。
元亀二年の春、秋山が岩村の城に入り、天正三年十一月に滅亡した。その間およそ五年。けれども城の破壊はなく続き、これより河尻肥前守が在住した。まことに当城は、その守将こそ代わるがわる変わったとはいえ、要害堅固であり、城の地は神の御心に適っていたためだろうか、数百年来破滅することなく、万代変わらぬ名城である。
この河尻肥前守というのは、その先祖は清和源氏であり、摂津守頼光の弟・大和守頼親の三男・福田次郎頼遠の末裔である。頼遠の子・柳津源太有光、その子・石川四郎光家、石川太郎光盛、河尻五郎光兼、河尻修理亮助廉、同太郎助光、又次郎俊助、河尻孫次郎俊光と続き、これより十一代後の末裔が、肥前守重遠である。このたび岩村に住み、五万二千石を領した。その後、天正十年(1582、壬午)四月、武田四郎勝頼が甲州天目山にて滅亡の後、甲斐・信濃・上野などの武田の旧領を、信長から諸将へ分け与えた。この時、河尻肥前守には甲州一国が与えられ、岩村を捨てて甲府に移り、十九万石にて住んだ。
その跡の岩村には森蘭丸長定が拝領して五万石にて在住した。この森蘭丸は、信長の舊臣で美濃土岐郡◎兼山の住人・森三左衛門可成の次男であり、勝蔵長一(長可)の弟である。さて蘭丸がここに住んだといっても、その守護は長くなかった。同年六月二日、京都本能寺において、明智日向守光秀の家臣・安田作兵衛国次によって討たれたのである。
天正十年(1582)岩村城主森蘭丸長定が没し、◎金山城主・兄武蔵守長可が遺領並びに苗木領も併有したが、同十二年(1584)小牧長久手の戦いで戦死し、弟右近大夫忠政が継いだが、慶長5年(1600)二月に信州川中島に移封された。その間、青木民部一重が少しの間ここを守った。そうして後、天正十八年(1590、庚寅)九月より田丸中務少輔具忠(直昌)が奧州三春から移り、四万石を領した。この者はもとは田丸幸太夫といい、伊勢田丸の出身で、太閤秀吉に取り立てられた武士である。慶長五年(1600)五月、永保寺に寺領安堵状を下した。(『遠山氏記録』『永保寺文書』)
已上
當寺中屋地年貢三十一石餘之事理候間令免除上は不可有相違之處仍如件
慶長五年五月十六日 田丸中大 直昌 花押
巨溪永保寺 (天正十七年十二月二十六日忠政の状と同文なり)
當寺藥園畠二十七石六斗餘爲寺領申付候 竝谷中山林共遣之置上は不可有違亂候仍状如件
慶長五年五月十六日 田丸中大 直昌 花押
巨溪寺 (天正十九年十月十一日忠政の状と同文なり)
その後、関ケ原合戦後の翌年の慶長六年(1601、丑)より、大給の松平和泉守家乗が二万石にて在住した。
山上村は岩村の古名で、山上家に伝わるものがある。往古、山上村に山賊が侵入して荒らしたので、村の邑長某が憂いて伊勢神宮に祈願したところ、霊験により翌朝宇治橋で武将に逢い、その武将は邑長と共に山上に来て山賊を平定し、当地に城を築き城主となった。これが加藤景廉であると伝える。伝説に因むものとしては、山上家に陣椀や、裏山には霊夢石、烏帽子岩、屛風岩など伝説にまつわるものがある。
また一つの伝説はこの景廉を「桐中将」という公卿としたもので、桐中将が無実の罪で都を追われ山上の里に流れて、邑長はこの零落した貴人を迎え鄭重に待遇した。しかし貧しく敷物には格子を用い、椀に二本箸のまま供した。この中将には娘があったが落ちぶれ尾張鳴海の娼女となっていた。やがて別の東下りの公卿に救われ、冤罪が許され父娘共に都へ帰った。これは娘の信仰した鳴海笠寺観音の霊験だったという。後に桐中将は迎えられて岩村城主となっり、霧城は桐ヶ城であったと附記している。
岩村城は地頭・加藤景廉が築いたとされるが、当時の地頭の居館は平地に造られるのが普通で、今の領家(岩村駅附近)にあったとみられる。やがて南北朝時代の延元二年(1337)に遠山三郎が新田義貞に従い越前金崎城が落ち岩村城は放棄された。やがて城中の八幡社の棟札は永正五年(1508)冬十月とあり、その頃には当地に山城として築かれていたのだろう。その後、天正年間(1573-92)森氏の時代に各務兵庫が築城し、現在みられる石垣などが配置されたとみられる。
参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
岩村町史刊行委員会『岩村町史』(岐阜県岩村町役場、昭和三十六年)60-68、84-85、158頁
恵那市史編纂委員会『恵那市史 通史編 第一巻』(恵那市、昭和58年)865-867頁
『苗木の伝記 苗木記・高森根元記』(中津川市苗木遠山史料館、平成24年)64、65頁