※詳細な場所は不明。江南市瀬部におく。
瀬部村及び島宮村・東野村等では、竹籠を大量に造り四方へ売り出していた。この辺りは松竹郷といって、往昔より松樹・竹林が多く、竹は強く丈夫で、諸器に加工すると上品だった。そのため「瀬部の籠作」として名物としていた。
尾張の竹籠は五、六百年以前からの名産で、『群書類從』本の『應仁記』の御霊合戦の條に、細川勝元は昌山尾張守政長の方の人でありながら、助力を加えなかったので、尾張守の軍勢が敗軍した時の落書に
無性なる竹をたのみてをはり籠くむよりはやくふちぞはなるゝ
とあり、また『朝日物語』に、太閤が天下を大形治めなさって、小田原御出陣の時に清須に三日滞留した。その理由は、「餓鬼腹空穗」といって大きな靱(うつぼ=矢を入れる武具)を組ませるべきとして、熱田の空穂職人・瀬部の籠職人を召して、寄り合って作ったが、重さ百匁は組みかねた。松葉村に竹祐という者がおり、彼が組んだものを金の空穗にして、御腰に付けなさった。竹祐には御褒美として米十石下さる云々と見えて、瀬部の寵の長さを知ることができる。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)