法性寺裏手の旧赤林氏宅跡から、昭和十九年にキリシタン遺物が見つかった。法性寺本堂の裏手に竹藪、桑園があり、境の溝に、桑畑から耕作の妨げになるものが埋め込まれており、ここから学童達の手によって発見された。
出土品のうち完全なものは一個で、五角形・一辺は約6〜7 cm、厚さ約0.6〜1.5 cm、漆黒の乾漆製とみられる。裏面には鋸屑が全面に付着する。半乾状態で掌に握りしめ手に納める用途で用いられたため、周囲に指痕、表面に中央への凹みや放射状文様が残る。中央の約3 cmの円内には聖像二躯が浮き出している。
同材質の破片に、径約3.6〜3.9 cm、厚約1.2 cmのものがあり、一つは「IH」刻印をもつが用途不明。また別の片には粗雑な「赤林」の釘書がある一方、左上の「信」の字は未乾燥時でかつ見事な筆致で真物のようであり、赤林「信」久の名か、「信」仰を示す文字とも考えられる。
さらに十点ほどの小片は径約1.5〜6 cmで、茶褐色の表面に黒色の微細な網目文様をもち、円内に「1/8/33/45」などの凸起刻印、「TA」「MO」などの文字片があるが断片的で全体像は不明。
特筆すべきは、乾漆片とは別に、裏面に馬糞紙(ボール紙)が付着し緑青を帯びた破片がある点である。慶長期(1596–1615)由来の可能性がある紙片が三百年以上地中で形を保った理由や用途は不明で、明治以降のものとも考えにくく謎を深めている。
当地の郷士で、世々斯波武衞家に仕え、慶長期には赤林掃部介信久が存在し、子孫は同村にて百六十石余を領して尾藩に仕えた(『織田眞記』『信長記』『府志』『尾張志』『徇行記』)。永禄期に美和村で海外文明が花正(コンスタンチノ)によりもたらされ、天正・慶長期の清洲での宣教師活動や洗礼の事例が知られることから、清洲中間に位置する当地の赤林氏にも海外文明・宣教の影響が及んだ可能性が高い。赤林氏宗家は維新後に行方不明となったと聞くが、当該家に未発見の遺物が残されていないか、宅址地下に埋蔵物はないかを調査する価値があるだろう。
参考:『尾張切支丹 年表 札所巡礼』(森徳一郎、昭和一九年)52-55頁