厚見郡下川手。平城であり、加納から見て東南に位置する。
初代城主となった土岐大膳大夫頼康は、周済坊の弟にして伊予守頼清の息子である。足利尊氏の時代に美濃・尾張・伊勢三国の守護となり、長森城は手狭であったため、革手城を築いて移り居城した。
頼康ののちは、その養子である土岐大膳大夫康行、さらにその子の土岐右馬助康政が、美濃守護として代々ここに居城した。
室町中期、康政が足利義満に反乱した際、頼康の弟である頼忠の子・土岐左京大夫頼益が幕命を受けて康政を討ち、自害させた。頼益はその功を賞されて美濃守護となり革手城に在城し、応永二十一年(1414)に没した。
頼益ののちは、その子・土岐左京大夫持益(文明六年 [1474] 没)、その養子・土岐美濃守成頼、その子・土岐美濃守政房が、美濃守護として代々ここに居城し、政房が永正十四年(1517)に隠居するまで美濃の拠点であった。
その後、政房の嫡男の土岐美濃守政頼(初名は成頼)が跡を継いで在城したが、天文年間(1532-1555)の初め頃、逆臣の斎藤秀龍(道三)の唆しを受けた弟の土岐左京大夫頼芸によって革手城を攻め落とされた。政頼は越前国へと落ち延びて、朝倉義景の援助を得て、のちに名右衛門尉頼純と改めた。
頼芸は総領となって革手城に在城したが、のちに大桑城を築いて移った。革手城の城代には長井豊後守利隆が置かれた。しかし、天文十六年(1547)、斎藤秀龍が革手と大桑を攻めて放火し、城は途絶えた。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)