吉根村にある。天台宗、野田密蔵院の末寺。山号は松洞山。

傳教大師 龍女のため法華経を授く

延暦年中(782-806)、傳教大師(最澄)が熱田神宮に参籠して修法を行ったところ、ある夜、童女が一人やって来て、大師にこう告げた。
「ここから東北にあたる地に龍泉あり、我はその地に住む龍女である。師の法恩を受けて永く不正不滅の悟り(無生)を明らかにしようと思う、願わくは我の為にひとつの尊い教え(一妙句)を示しなされ」と、語り合うこともせず、忽然と姿を消してしまった。

大師はその童女の言葉に従って跡を尋ねて当山に至った。山の西南に池があって、その中からにわかに浪が沸き起こり、龍女が出現し大師に言った。
「先日、熱田で契り参ったが、今こうして畏れ多くも尋ねて来てくださったこと、言葉にできないほど感謝しております。このうえは我の長きにわたる苦しみ(累劫の苦患)を救いなされ」
大師は応えて、法華一実の深遠な教え(妙旨)を授けられた。龍女はこの上なく喜び、
「今より後に旱魃があれば、必ず恵みの雨(甘雨)を降らして、広く人民を救おう」
と誓い、池に入った。その池を、多羅々が池という。

さて今度は、池の中から閻浮檀金の馬頭観音の尊像が涌き出て、かたわらの椎の木の梢へと飛び移られた。大師は感激し、茅葺の小さな堂(茅堂)を建て、その像を安置した。それから間もなく本堂を造立し(龍神の威力が現れ造立したと伝わる)、木尊と崇め、当寺を龍泉寺と名付けた。

『沙石集』にも、尾張國龍山寺は、むかし龍王の一夜のうちに作って供養した寺である。夜が明けたときには、お堀が掘り割られており、当時もその跡が見えたという。

馬頭観音は霊仏と見え、熱田の舊記に、「当寺を塾田の神の内院とし、八剣のうち三剣をこの地に埋めたため、今に至るまで印頭の観音の像の傍に、三剣を図する」という記述がある。

弘法大師 夏は十度参詣

その後、弘法大師が熱田の神宮寺で、本地供を百箇日修していると、毎日一人の童子が来て、樒(しきみ)と閼伽(あか)の水を奉った。大師は怪しんで、童子が帰るのを見送ったら、この山の麓の多羅々ヶ池に入った。大師ははじめて龍神である事を悟り、以後結夏の間に、この山に十度参詣し、かの観音の金像を供養し、結願の日、熱田の榊を折って来て、堂の南に植え、当寺繫栄の印としたという。その榊は枝葉が茂り、今に遺る。この故に当寺を伝教・弘法両大師の開基とする。今、百度の夏参をし、あるは四月五日と七月六日と、この山に詣る事は、ひとえに弘法大師の遺例によるものである。

秀吉 陣をおく

今、当国四観音に列し、三十三観音の一つとする。中昔より度々の兵火に罹る。天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで、楽田城で敗報を得た秀吉は二万の兵を率いて、龍泉寺に到着し、翌日楽田城に戻った。秀吉公の軍卒が殿堂を焼いたので、什宝・旧記等悉く失せる。慶長三戊戌年(1598)秀純和尚が再興し、本堂・二王門・多寶塔を造立し、むかしに倍して繁昌の霊地となった。特に近年は、開運厄除等の守札を賦与する。正月十八日又節分の日などは、諸人群参して札守を受けるもの幾千人にのぼる。

  • 木尊:馬頭観音は上にいうように、凡工の鎔鑄でなく、霊験著しい。
  • 多羅々ヶ池:山内にある。たゝらを誤って伝えたのだろう。たゝらは周防國の地名にもあり、『海邦名勝志』には、たゝらとかく。考えるべし。
  • 椎木:たらゝヶ池の側にある。むかし本尊観世音、この木の上に飛び上ったことをいい伝える古跡だが、中世に枯れて、株のみ残り、天和年中(1681-1684)の暴風に吹き倒れて、今は名のみ残る。
  • 榊木:堂の前にあり。むかし弘法大師夏中日参百度の結願に、植え置いたことをいい伝わるが、これもまた枯れうせてその跡のみ残る。
  • 西國三十三所観音堂:天保の頃に建立し、山のなかの所々に小堂をいとなむ。春の頃はとりわけ参拝多く、この堂を巡拝する者は少なくない。
勝地であり 和歌の名所

当山は勝川の流れの傍の山岸で、書院及び本堂の後の裏山から、西北の眺望はいうことがなく、西に金鱗の光は鮮やかに、さらに小牧山・尾張不二・本宮山、尾北をはじめ、近国の連山波濤のようで、近くの勝川の緑水(りょくすい)は清冷で、曠野の平遠な篠木の村落、枰面(へいめんー碁盤)に石を下したようで、寸馬・豆人が行き交う様子で、風光他に勝って実に城東第一の絶景、雅俗帰路を忘るゝの勝地である。であるのみならず、この山は龍の御山とて和歌の名所である。  

雨雲の(天つ風[鹽尻]) さそひつれてや くだるらん たつの御山の 夕立の空(雲[鹽尻])
衣笠内大臣(都笠内人[鹽尻])

『夫木抄』

雲晴れぬ たつの御山の ほとゝぎす 空をかけりて 啼きわたるなり
源仲正

『鹽尻』に、龍の御山は衣笠の大臣の和歌に詠まれているが、世に広く聞こえないのは口惜しい。天正十二年(1584)の夏、小牧長久手の戦いで豊臣秀吉の陣所となった。とにかくその頃は、たいへん騒がしかったのだろう、もの変わり星は移り、汗馬戎衣の跡さえ虚しく消え。寒い月の城辺の暮れや、関となる河、古い陣の秋、むかしの語となってゆく。

あはれなり人のゆきゝは嵐ふく龍の御山のしぐれさひしも

と見えたり。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

名古屋市守山区竜泉寺1丁目902番地
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