白石山姫ヶ井

道行く旅人を潤す

大野郡揖斐の東の谷汲山観音への参詣の道に白石という所があり、その山の麓に姫ヶ井という清水がある。また、この白石山の中腹には八畳岩という大石がある。岩の上が平らで美しく、畳を8畳ほど敷けるほどの平石であることから、自然とそういわれるようになった。

姫ヶ井

さて、美濃国には「姫ヶ井」と呼ばれる所が三ヶ所ある。第一に白石の姫ヶ井。

第二に不破郡青墓村の西、右の方の田の中に古木の松があって、その下の姫池という清水である。これは昔、小栗判官の妾である照手という美婦が使った水で、今は「姿見の池」といわれる。照手という者は、赤坂宿の万屋の丁という者のところで奉公していたといい、この丁の子孫は赤坂にある。また安八郡結父村にも、照手の姫が勤めていたということで古跡がある。

第三に東美濃可児郡姫ヶ里の姫ヶ水という霊水である。これは大昔、横萩右大臣藤原豊成の娘である中条姫が、ある年この里にお住まいになり、その庵の前にある清水を汲んで朝夕用いたという。中条姫がお住まいになった郷であることから、この地を「姫の里」と名付き、その流れは末世の今に至るまで「姫が水」と呼んでいる。中条姫というのは、大和国の当麻寺にある曼荼羅を織られた方で、この地に滞在されていた折、蓮の糸をもって織られた曼荼羅が恵那郡安村の禅寺に納められ、今に残っている。

竜宮の乙姫

さて、この白石の姫ヶ井の由来を尋ねれば、西国巡礼が行き交う道端にあり、山際を流れる少しばかりの清水である。その源は白石山の峰より自然と湧き出る清水で、誠に細谷川の流れであるが、だんだん落ち合って滝のように流れるのを、麓に井筒を据えて堰き溜め、道行く旅人の渇きを癒す助けとして設けられた。

しかし今は自然と廃れ、気にとめる人も稀である。しかしながら、古くからその名を知られた姫ヶ井であり、心に留めて古老にその由来を尋ね語られたことを記す。

その昔、延喜(901)以前の頃のことであろうか、天満天神が谷汲山の華厳寺にて写経をなさったことがあった。その時に、白石の川の淵より龍宮の乙姫が現れ、毎朝この山の井水を汲んで阿伽の水(仏前へ捧げる水)として運びなさったという。これによって、この清水をいつの頃からか姫ヶ井と名付いたとか。その乙姫の姿は人々の目にかかることなく、ただ天神様のお目にのみ映ったのだという。また、乙姫の作として天神様に伝えられたという古歌には、

この頃は 汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に

さてまた、そのお経は谷汲山の毘沙門天の胎内に納められたとのことである。かの山の上に妙法水という所があり、その遺跡という。こうして時が移り変わり、星霜も長く過ぎれば、姫ヶ井も自然と落ち積もる木の葉に埋もれ、生い茂った八重葎に閉ざされて、その場所さえ分からなくなってしまった。

霊水

この水はもとより清らかな霊水であり、流れ注ぐ田畑はみな五穀豊穣となる。白石の辺りの清水という里の名も、この水の流れを引いたものという。水は清らかで冷たく、甘く澄み切った泉であった。

あらゆる病を癒やし、万江を潤す様は、当国養老の菊水にも等しいという。とりわけ難産の婦人がこの水を用いると安産となり、母子ともに安全である例が多く、殊に不思議なことだという。また猛暑の時期、子供たちが汗かぶれやあせもといって頭や顔のあたりに症状を発したことがあっても、この水で洗い、あるいは行水などをさせるとたちまち治ってしまうことは神の如し。これこそ観音のご加護であり、福寿無量の大慈悲の誓いは空しくない証左といえよう。

なお、この流れの末は株瀬川へと注ぎ、伊勢や尾張の方、はるか遠く南海へと流れ、その先は定かでない。このことから察するに、古くは株瀬川の流れもこの白石の山麓を通っていたとみえる。

谷汲山観世音では33年ごとにご開帳が行われるが、その頃には貴賤なく参詣の客が列をなし、巡礼の男女は引きも切らない。山辺をゆき交う様子を遥かに見れば、実に風雅で趣深い。春から次第に炎暑へと向かえば、道行く袖は汗で濡れつつ、この姫ヶ井の水を汲んで行く。誠に功徳深き霊水の物語である。

参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

揖斐郡揖斐川町
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