古名は馬走瀬といい、紹巴が『富士見道記』に「まはしといふ所までは、馬にて行きける」とある。元禄の頃(1688-1704)、國君(尾張藩主)が馬を走らせ汐湯を浴びさせなさった行殿が、幕末(1844)まで残っていた。商家も数町にわたり軒をならべて、たいへん繁昌している街である。
横須賀村の磯辺をいう。宗蔵法師の『方角抄』に、「鳴海より五六里辰巳なり」云々。また「衣のの稱…、名寄にも見えたり」云々。
堀尾秋實が著した『衣浦千鳥集』という刻本があり、この浦の事を詳しく記し、詩歌連俳も多く載せてあるが、こゝでは省く。この村より西南の海浜を衣が浦とよぶ。
衣浦寒砧 羅隠
海天秋色塵暄テ絶フ。幽趣猶添月一痕。斯ノ地衣ヲ稱スル意有ルガ如シ。寒砧處々漁村ニ起ル。
同前 膝長軒
風波淼洌海邑開ク。砧杵遙ニ聞ユ衣浦ノ隈。晴レ見ユ天邊七襄ノ色。粲々タル斜照雲ニ傍ウテ來ル。
衣浦晚望 張撰
海門渺々天涯ニ接ス。日暮歸禽渚ヲ隔テ鳴ク。此際風烟限無ク好シ。偏ニ騷客ヲシテ詩情ヲ動シテ令ム。
衣浦卽事 宇野久恒
青鳥飄々衣浦ノ邊。波濤一望雲ト興連ル。憐ム可シ舊ニ依テ風光美シ。猶昔時巡狩ノ年ニ似タリ。
『新千載』
五百弟子品の心を
波かかる 衣の浦を来て見れば 藻にあらはれて 玉ぞよりける
法印盛蓮
題しらず
あらはれぬ 衣の浦の玉がしは いかなるえにか しづみ初めけん
寂眞法師
『新續古今』
後宇多院に十首歌奉りける時浦千鳥を
しほたるゝ あまの衣の浦千鳥なく 音にさへや 袖ぬらすらん
よみ人しらず
うへのをのこども題をさぐりて歌つかうまつりし時、浦夏月を
ぬれてほす 海士の衣のうら波に 見るめすくなき みじかよの月
權中納言雅世
『月清集』
吹きかへす 衣の浦の秋風に けふしも玉を かくる白露
後京極攝政
『夫木』
波あらふ 衣の浦の袖貝を 汀に風の たゝみおくかな
西行
立ち渡る 雲の衣の浦よりや 玉とは見えて あられふるらん
九條内大臣
濱千鳥 あとあらはれぬ世にふりし 衣の浦の 名をしとどめて
氷室亮長
松が枝に 天津乙女のかけてほす 衣の浦の 花のふぢ波
粟田知周
いくよゝか なれて衣の浦千鳥 たちもはなれず 友さそふらん
専阿
沖津浪 よるのよるのしほ風身にしみて 衣の浦に 千鳥なくなり
一阿
きてみよと よぶや衣の浦千鳥 月のなみたつ 海のおもてを
秋寶
『六帖詠藻』
ありときく 衣の浦の玉やこの 浪のしら玉 手にもとられず
盧庵
八重滅の 立居も見えずはるばると かすむ衣の 浦の朝なぎ
磯足
立ちなれぬ 衣の浦の朝霞 猶袖さゆる 春風ぞふく
美濃
おりたちて ひろふ乙女の袖貝は 衣の浦に かゝるなりけり
日潤
いうぜんの 染入とみゆる色貝は 名にし衣の うらもやうかも
可童
秋沙魚(はぜ)を 釣るや衣の浦に来ても すそは波に ぬれてかわかぬ
嘯山
千鳥がけ するかと見ればむら千鳥 衣の浦の ほころびるほど
鳥川
風さむき やぶれ衣の浦なれば 千鳥がけにや ぬうて行くらん
一本亭
墨ぞめ の闇や衣の うら千鳥
東甫
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)134-