阿波手森 あはでの

上萱津村にあり。古人の秀詠多く、蒼鬱な古林、日の影を見ず。木の下露は雨にも勝り、人の跡は稀で、鳥聲が寂寞な勝地である。『藻鹽草』に尾張とあり、また『名所方角抄』に、「阿波手の森、浦里有之、 下津といふ里の南にあり。 建保名所にも入るなり」としるし、 阿波堤粟手・粟殿などとも書かれる。

尾張八景
粟手ノ杜ノ晴嵐 大徳寺覺印

楓樹紅ヲ飜シテ錦繍ノ如シ。海潮碧ヲ湛ヘテ瑠璃ニ似タリ。翠嵐一帶奇景ヲ添フ。粟手林巒樂者ハ誰ゾ。

新千載
題しらず

かきたえて人も梢のなげきこそはてはあはでの森となりけれ 紫式部

建保三年内裡名所百首

我戀はあはでの森の夏草の人こそしらね茂るころかな 順徳院御製
さりともと色に出でぬる言の葉もあはでの杜の名にぞおどろく 僧正行意
かた絲のあだの玉の緒よりかけてあはでの杜の露きえねとや 參議定家
日數ふるあはでの杜の下紅葉もりくる露の色に出でにけり 從三位家衡
名にしおはゞあは手の杜の呼子鳥うきはためしの夜半の一聲 俊成卿女
いつとてもあはでの杜の夕露のなど秋風にたえずちるらん 兵衞内侍
たゞ染めよ時雨も露も置く霜もあはでの森の秋のくれがた 宮内卿家隆
身にとまるおもひはこれもしられけりあはでの杜の夜半の木枯 左近衞中將忠定
白露も置きだにあへず枯れにけりまたもあは手のもりの下ぐさ 前丹波守知家
そのまゝにあはでの杜の秋の暮袖よりほかに色かはりけり 前丹後守範宗
聞かじたゞあはでの杜の名もつらしうきためしある昔なりけり 散位行能
わびはつる身を空蝉のおのれのみあは手の杜に音をや鳴くらん 藏人左衞門少尉藤原康光

色葉集

なげきのみ繁く成り行く我身かな君にあはでの杜にやあるらん 相模

康平三年(1060)三月十九日、高倉の一宮で、国所の名をお定めになった時、相模が詠んだ歌である。「あはでの杜」は尾張の国にあり。昔、妻が夫を会おうとして、尋ね歩き、かの森に行き着いたが、あひ見ずして死んでしまった。これによって「あはでの森」と名付いた。さてその国を「をはり」というのは、終と書きてけるを、「尾張」と注したのである。

夫木

つひに猶あはでの杜のほとゝぎすしのびかねたる聲たてつなり 琳賢法師

我ためにあは手の杜の雫かはつまとふ鹿の立ちぬれて啼く 土御門院小宰相

雪玉

人心はげしく見つるけしきよりさてやあは手の森の木がらし 内大臣實隆

自歌合

今ぞしるあはでのもりの秋風よ木の葉ふりしくちぎりなりとは 豐原統秋

延享二年公宴

いつまでかかわかぬ袖の露ならんあはでの杜のあはぬなげきに 通枝
我なげき人のつらさにしげりあひて果は阿波手の森となりなん 契沖

富士見道記

十三日に阿波手の森門前の妙勝寺興行。森の東に反魂香燒跡、又森下に社あり。其下藪の香の物入りし瓶(かめ)あり。
野分にやあはでの森の初栬(もみじ)

嚝野集

藁一把かりて花見る阿波手哉 湍水

『鹽尻』

宰相中将・公澄卿が日光例幣使として下向され、卯月二十六日に熱田に宿泊された際、参って拝謁した。箱物・干物を献上し、二見の浦の濱荻・藻鹽草・忘貝など、硯蓋にして差し上げたところ、たいへん喜びになった。去年届けた阿波手の森の籠物は、院に献じお慰めとなったと語り、この海の物もまたこのようにお話しになるだろうと、聞いたので、ささやかな献上物が、雲の上まで思い至らなかった。

君が手になびくもうれし神風や伊勢の濱荻波に朽ちせで 信景

尾張名所記

森のうちに匂鳥もや香のもの 虎竹
なづかしき秋や粟手の鹽の味 雄淵

参考:『尾張名所圖會 前編 巻七』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

あま市上萱津薬師42番地5
種別