寺伝によれば、寛喜年中(1229-32)に親鸞が尾張国葉栗郡大浦(羽島市正木町)に創建し、直弟子閑善(俗名小笠原長顕)を住僧としてはじまった。10世顕清の頃に木曽川洪水により寺堂が流失したため、中島郡苅安賀(一宮市)に移ったが、後いったん再度大浦に帰り、さらに永正14年(1517)に当地へ移転したという。なお移転の時期には諸説ある。

天文年間(1532-55)、聖徳寺は本願寺の常住衆として本山に詰め、正月二日の謡初(うたいぞめ)に翁を舞ったり、三十番衆(御堂番衆)として一ヶ月交代で石山本願寺へ上り、宗教的勤仕の当番にあたっていた(『証如上人日記』『私心記』)。
また絵像裏書(写を含む)や『証如上人日記』によると、この頃までに、中島郡小信村中之坊(『聖徳寺文書』)や加賀野井村太子堂極楽寺(『極楽寺文書』)をはじめとして、現一宮市・海部郡・羽島市・岐阜市あたりにも門徒や末寺があった。

道三と信長会見

天文22年(1553)織田信長が岳父の斉藤道三の求めに応じて聖徳寺で会見した。供衆7、800人を引率した。当時信長は天文21年(1552)3月父信秀が没し、8月に清須城乗っ取りに失敗し、9月に今川軍の八事侵入を許し、孤立が深まっており、翌4月上旬に岳父(妻濃姫の父)の斉藤道三が手を差し伸べた。

『信長公記』によれば、富田は人家が七百軒もある富裕なところで、大坂本願寺より代理坊主を入れ置き、美濃・尾張の守護の免許状を得て課税が免除されていたという。

一向一揆

元亀元年(1570)、聖徳寺は長嶋一揆に加担しない意思を示すため、信長に蜜柑二籠と白鳥を送った。信長との関係は浅からぬものがあり、信長が寺に網代輿や金紋挟箱を贈ったり、この方面への出陣の際には当寺で陣の編成をしたと伝えられる。

小牧長久手の戦い

天正12年(1584)に羽柴秀吉と対立した織田信雄は徳川家康と組み戦った。伊勢方面で始まった戦いは池田元助(恒興の子)の犬山城急襲により尾張東部を主戦場とするに至った。秀吉はここで事を構えることを嫌い5月1日頃に聖徳寺内に入った。秀吉はその後、竹鼻・祖父江近辺に放火し、7日に加賀野井城を、9日に奥城を落城させ、三柳(羽島町正木町三ッ柳)に陣を移す。
聖徳寺系譜によれば、信長が竹鼻城を攻撃していた時、突然背後から撃ってきた苅安賀城主浅井一族とやりあっているうちに、竹鼻城兵により聖徳寺は焼き払われたという。

6月には秀吉が聖徳寺に御堂屋敷地と田畠24町7段220歩を寄付している。

天正14年の大洪水

天正14年(1586)6月24日の木曽川大洪水では富田村が水没し、17年11月21日に秀吉から三矢村(笠松)で二百石が与えられた。富田では古くから七割余りの土地を河底に失ったと言い伝えがある。羽島郡八剣村字徳田の人吉田正直の著した『尾濃葉栗見聞集』によれば「富田は名のみ残て、今起宿の下に三百八十三石余なり」とある。

富田市場

天正十二年(1584)には、聖徳寺の富田寺内では、毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日に六斎市(定期市)が開かれていた。
天正十四年には河野専福寺(笠松町円城寺)の寺内町に、5と10の日に開かれる円城寺市場が開かれていた。しかし、天正十四年の木曽川洪水で聖徳寺が被災し、専福寺寺内に商人が移住したとも、富田市場が竹鼻に継承されたともいわれる(『起町史 下巻』、1995年)。
参考:尾西市史編さん委員会、旭澄江『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)204、207-

一宮市冨田大堀
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