飛車山(ひくまさん)と号す。浄土宗、名古屋東寺町西蓮寺の末寺。
永世二年(1505)に尾張守護職斯波氏の被官(家臣)林心斎が草庵を建て開基した。天正年間(1573-92)に今の地に移し、祖玄和尚が開山(寺として整備)、慶長二年(1599)小牧山の中腹に在った先手観音を境内に移し山号・寺号を現在の飛車山龍音寺と定めた。
本尊の千手觀音は銅仏で、弘法大師の作といい伝える。山上に旧跡の礎石が残り、俗に七ッ石といったが、慶長十五年(1610)名古屋御城築のとき、多くを石垣に用いたため、今は僅かに三つ残る。天正年中(1573-1592)にこの観音を盗み出して、三河国足助の里に至ったが、その夜、像から光が現れ怪状を示したので、里民は恐れて、急ぎ当村に帰したという。霊仏で、当国三十三観音の所である。また乳の願いをかけるとかならず験がある。
慶長十二年、尾張藩主徳川義直の家臣である佐枝主馬が間々村の領主に任じられると、佐枝家の庇護を受けて発展し、信者数が急速に増加した。
秘仏先手観音は、金銅仏で高さ一尺五寸(45cm)、重さ5.6kgほどの仏像。
平安時代初め、弘法大師空海は鎮護国家を祈り、自ら金銅製の千手観音を鋳造されたという。大師は帰朝後、この霊仏を高野山金堂の密室に奉安し、訪れる僧俗の信仰の対象とされた。やがて時代を経て、誰もその所在を知らぬまま小牧山中腹に降臨したと伝わる。以来、村人はただ「山の観音様」と呼び、日々供養を続けてきた。
明応元年三月十八日、腕利きの狩人が小牧山の峰に弓を構えると、一列に並ぶ鹿を射抜いた。ところが鹿は忽ち七つの石に化し、同時に空には五色の雲が輝き、地上には異香が満ちた。石の真ん中からは忍岩を押し分けるように千手観音の尊像が忽然と現れ、四方に御光を放って山鳴りを伴う轟音を響かせた。狩人は恐怖のあまり弓矢を捨て、ただ尊像にひれ伏して礼拝を続けたという。
その噂を聞きつけた村人たちは、急ぎ山に草堂を建て尊像を安置した。狩人は頭を剃り出家し、草堂で日夜御前に奉仕した。二年後、旅の老僧が参拝を願い出て草堂を訪れ、空海の自作仏と断言するとともに「百年後には山麓の村に移され、その十年内に天下統一となり天下泰平となるだろう」と予言した。僧は経を誦し終えると姿を消し、狩人とともに二度と人前に現れなかった。
永正年間、農夫の伯楽は観音祈願で病馬を健馬に変える奇瑞を示した。病馬が来ると、主を家に帰し、馬体を洗浄してから堂へ参じ、一心に祈願をすると翌朝には驚くほど快復したという。評判を聞いた遠近の人々が伯楽の門前に集い、市のような賑わいとなった。伯楽は晩年、病を得て旧友に「祈願の礼金は半分を観世音供養に供えよ」と遺言し、後世への伝承を託した。
ある新婚の母は貧苦の中、夫が他郷に商売に出て旅先で亡くなり、貧しく生活に困り、乳も出なくなった。村人から贈られた一袋の米を尊前に供え、「どうせ死ぬなら」と死後の安楽を無心に祈り続けると、下山と共に空腹感が無くなり乳房が張って、乳があふれ出した。幼児は日に日に体力を回復し、やがて余った乳を近隣の児にも分け与えた。その後も一袋の米を尊前に供して妙益を得る人多く、供物が山となったという。
天正十九年(1591)、三河足助では洪水・旱魃が起こり村人が豊穣を願って尊像を奪い山を下ろうとしたが、かえって雷火や大風の災禍が続いた。小牧山の旧草堂では像がなくとも祈れば効験が衰えず、足助は恐れて尊像を返すこととなった。やがて間々村まで来たところ、尊像が重くなり背負っている者が倒れてしまった。すると、河辺で包みを解かれ尊像は自力で直立し、誰にも動かせない重さとなった。村人も山上に戻せなかった。間々村の草庵で修行をする僧・祖玄は、「尊像の下山の時が来たゆえ、あえて山上に移さず麓に安置すべし」との夢のお告げを受け慶長二年三月十八日、その河辺に飛車山龍音寺を建立し尊像を奉安した。
祖玄建寺後、関ヶ原合戦後の尾張侯臣・佐枝主馬は当寺の霊験に感銘し、名古屋私邸に一木彫像を刻んで分身とし七日間供養を行った。満願の日に尊像を模して仏師が尊像を写生しようとした際、尊像を粗末に扱って悶絶する事件が起こり、改めて尊像への敬いを深めた。主馬は写生の中止を願い出て分身を返却したが、以後その信仰心は倍加したという。
先手観音は秘仏とされ、明治以後でも、明治十九年、大正十三年、昭和二十七年というように三十三年をめどに十日間ほどの開帳が行われてきた。幕末からはお乳を題材にした絵馬が奉納されるようになった。現在では乳授かりのほか、水子供養・虫封じ・乳あずけ(乳が止まらない人)・厄除け・子授かりおよび安産の祈禱を行っており、参る人が絶えない。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)