家傳夢想丸は本陣の林氏で製す。小児の五疳(心疳・肝疳・脾疳・肺疳・腎疳)・驚風(驚き等から発熱・痙攣)・はやて(経過が急で死に至る伝染病)の妙薬で、効験は世の人がよく知る所である。

そもそもこの家は信長公の老臣・林佐渡守信勝の末裔である。天正八年(1580)、佐渡守が故あって信長公の勘気を請けた時、養子宗兵衛正三の一子正長、俗称惣兵衞、清洲の地に在宅していた。その後寛文八申年(1668)、 その子孫へ当駅の本陣役を命じられ、今の所に移ったという。それより代々惣兵衞を通称とし、連綿相続する。この家は玄関前に古い松の樹があり、高松館と名付けられた。その松は枯れて、植え替えられた。詳しくは彼の記に譲ってここでは略す。


高松館記

清洲駅は古くは尾張の治であった。故羽林家はここに居た。当時は館と駅は北の市村に在った。家康が初代藩主・徳川義直を尾張に封じるに至って、清洲に厄が有ると恐れ、城を名古屋に移す。その後、百姓は居を移し。城とその町は虚となる。寛文八年(1668)、北市の館・駅は全て旧録となり。駅は今の神明街に移る。その時に、林氏は既に駅長となり、宅を城跡に構え、代々家を継いでいる。屋敷の中の巨石は古の塁石である。

先に軒の前に一株の松が有る。これは城中に植えられた高い松で、偃蓋盤龍(えんがいばりゅう:曲がりくねり上部は傘のように拡がる)、蓊鬱千尺(おううつせんじゃく:青々と高く繁る)。往来の侯伯は壮観と眺める。因て高松館と名付くという。

惜しむらく天明六年(1786)の夏、屋敷・高い松は皆、池の魚の厄に罹る。しかし樹はただ葉が焼け、老幹は依然と残った。再建することになり、伐て棟梁の用となる。不日にこれを成す。誠に庇恩(かばいの恩)による所である。林氏はその来由を失わぬようにと、拙者に請いて記すことになった。高松は一度火に罹ったといえ、遂に棟梁の用となり、以前より倍加して広々と大きな屋敷で、林氏は力を尽くして経営する。位の高い役人や貴族、挨拶にくる領主たち、来るもの列をなして引きもきらない。朱輪(豪華な馬車)を駐めるに足るほどである。実に千歳不易の侯館である。館を高松と名付けずにはいられない。

この地は城跡の中央に在り。四方を田圃が囲む。町や道、宅、神祠、仏閣、遺趾があちこちにある。東に一つの小さな丘が有る。老松が亭々とある場所は、層樓(そうろう:高い建物)の跡である。林堤に蛍が帯び、橋梁が多く架かるのは五條川である。その水は幼川で青木川に出る。駅北に古川新田と称するものがあり、古の五條川である。現在、駅東を流れるものは古の隍塹である。

今の時点から昔を視ると、遺跡・旧跡は千・百に十・一を残すといっても、地形から推測して古を描くに足りる。遺名から調べれば、おのずと跡をこの館と探るに足りる。もともとひっそりとせず人があふれ、或いは投宿し或いは休息している。なので、ここでその来由を知らぬ者に示す。ああ子孫が身を保ち、嗣いでこれを修めてくれれば、その高い松は棟梁の用をなし、寿命を保ち、名が朽ちぬだあろう。 
寛政庚申夏五月 樋口好古撰
高松館     河村盆根
古驛清洲の縣。林氏の高門有り。館の名は確かに残っているが、高松は見えず。昔日は三百丈あり、亭々と慈園にそびえていた。重陰が厚いこと瓦のようで、深翠蓋幡の如し。一旦枝葉を焦し、害が心魂に及ばず、良匠が霊質を選び、これを伐って南軒に架ける。招隱を誰かが築く。翹村も或は論ずべし。棟梁の名は朽ちず。雨露の恩を受ける。


小山田紀内の話

『御伽婢子』という草紙に尾張清須に小山田紀内という者がいた。ある夕暮れ、門口に立ち居ると、十七、八ほどに見える女で、見目形世の常ならず普通の人ともみえないのが一人、西の方から東へ向かって通り過ぎた。また翌日の暮れにも門に居ると、彼女が西から東へ行き過ぎる。紀内も近い辺りにきこえられる美男であったため、女は紀内をつくづくと見て、心ありげに通り過ぎた。

こうして四、五回も続いたので、紀内は立ち寄って女の手を取り、「君はいづく(どちら)の人で、日暮れごとにここを通り、どちらへ行くのか」と。女は驚く様子もなく笑い、「自らの家はここより西の方に当たる所、用あって東の村へ行く」と答える。紀内が試しに女の手を引いて家の中へ入れようとすると、否とも言わず、その夜はそこに泊まり、わりなく契りを結んだ。夜が明けると暇乞いして帰って行った。

「またいつか来たらどうか」と言うと、人目を忍ぶ身で必ずしもその日として契り難いと、女は「なおざりに契りをおいて、なお人の心の誠を見たい」と言った。
紀内はますます嬉しくなり、「なれそめてこゝろかはらば中々にちぎらぬさきぞ戀しかるべき(:馴れて心が変わるのであれば、なかなか契らぬ先が恋しいだろう」と応じた。別れの袖は朝露に濡れて名残惜しい。

四五日の後、夕ぐれにまた来た。今は互いに打ちとけて、その下紐のわりなく結ぶ契(下着の紐を自然と結ぶほどの契り)の色深く、宵々ごとの関守も、恨めしき心地して、のちには夜ごとに来るようになる。紀内が、「かほどに自然と契る上は、何か苦しき事はないか?君の家がここから近ければ、我も君のもとへ通ってもよい」と言うと、女は答えて、「自らの家は甚だ狭く見苦しく、人を待ち受け一夜を明かす用意も無い。そのうえ、兄は今は無き人となり、その兄嫁の目を忍べば、中々心苦しい」と言う。紀内、実にもと思い、いよ〳〵人に語らず契る。

この女は類なき縫針に手きゝであった。夕暮れごとに来て、夜もすがら紀内の小袖などを洗いすすぎ、縫い立てて着せ、或いは苧(お)をうみつむぎて(うみ:繊維を裂いて繋ぎ合わせて、つむぎ:撚りをかけて糸にする)、美しく細い布を織り立てさせると、見る人はこれは世の常の布に非ず、筑紫の浪の花、越後の雪ざらしとも、是ほどとはあるまいと、褒めぬ人はいない。後には、美しい女の童、一人を召し連れて通ひ来て、これもまた手きゝであった。かくて半年ばかりの後は、昼も留まり、童と絹を織り、縫い立てゝ紀内に着せて、家の内のよろづを甲斐甲斐しく世話をしていた。

紀内は、「夜さえ忍ぶ身で、昼さえ帰らなければ、もしかしたら兄嫁が咎めるかもしれない」と言う。女は、「いつ迄もこの身忍び通すことが出来ない、また君の心もどうなるが、末は頼み難いが、 ひたすら我が身を君に捨てて、このように通って来ている」と言うと、紀内の嬉しさ限りなく、心奪われることこそ道理である。

こうして或る夜、女が来て、ものも言わず嘆いているので、紀内が「何事ぞ」と問えば、「今まで深く契りを結んだが、別れるべき事が出来て悲しい」と、またさめ〴〵と嘆く。紀内、「何事ゆえに離れるのか」と言えば、女、「今となっては何を包むことがあろうか、自らは飯尾新七の娘である。年十七で、病により亡くなり、既に明日は第三年にあたる。死んで中有に留まる事、三年を限りとする。過ぎればその業因に任せて、どこえなりとも生を受けて赴く。されば今宵限りの別れになり悲しいのが当然」と、しきりに悲しんだ。紀内は幽靈と聞きながらも、これほどの情を思うと、恐しくもなく、夜通し悲しさかぎりなく、眠れなかった。

女は白銀の盃一つと、玉を散りばめた小さい花瓶に取りそえて、「君がもし忘れなければ、これを形見に見てほしい」と、『俤のかはらぬ月におもひいでよ契は雲のよそになるとも』(面影の変わらぬ月を思ってみよ、契りは雲の中になっても)として、泣く〳〵渡せば、紀内も色よき小袖に、白い帯を取りそえて女に与え、『待ち出づる月のよな〳〵そのまゝに契たえすなわがのちの世も』(待ち出る月が夜な夜なそのままに契り絶やすな、我が後の世も)と言って、繰り返し言葉にして泣き明かし、鐘の声が遠く響き、鳥の音が騒がしくなれば、起き別れ行く袂を控えて、「去るにしても、無き影の埋もれる所は何処にあるのか」と尋ねると、「甚目寺のわたりなり」と答えて、立ち出でたと見えたら、跡かたもなく消え失せた。紀内は甚目寺の辺まで行ったが、そこと知られる塚も無し。今少しその所だと問えるものも無くて、しかたなく『たのめこし其つかのへの草ふかしいづこなるらんもずの草ぐき』(頼りにさせるその塚の辺の草深し、何処だろうかもずの草莖:もずは秋の鳥で、寂しい鳴き声をする)と詠じながら、日暮れがたに我が家に帰り着いた。

その面影を思うと恋しさ限りなく、終に病になり、日をかさねて病重くなり、薬も飲まず。ただ「早く死んでこの人に巡り会いたい」とのみ言い、程なく亡くなったと記す。もとより浮いた物語で、記すげき事では無いが、紀伊國原見坂の物語に類を同じ消えた奇談なので、かの図絵に倣い、しばらく記すのみ。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)


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