山口川の上流で、水源は三州(三河)加茂郡より出る。川の両岸から巌石がさし出て、川幅はここで大いに狭くなり、みなぎり落ちる水勢が激しく、逆浪雷動し、激しい水は、勢いよく玉を散らす。これを龍淵と説く。たいへん勝地で、古今の文人・聖客多く杖を引いてここに至り、詩を書き和歌を詠んであじわう。なかでも、伊藤三橋が詩を賦したのを、門人の尾頭備が瀧の側の岩に彫り付けて永く世に伝える。

伊藤公照字子績は、三橋と號し、静観室と称す。府下(名古屋城下)葭町に住み、俗称彦三郎といった。古体の書に優れ、また詩を嗜む。好事の人で、この龍淵の奇観を愛し、常にこゝに来て遊び、この岩の上に詩を刻む事を望んだが、生前にその志を果さず没した。門人の尾頭中書がその遺意を遂げようと、文化十年癸酉(1813)の夏思い立って、先に瀬戸の医師の加藤松山という者に便りを送り、やがて赤津の医師・佐藤周佐という者と心を合わせ、中書と共に官許を得て、 深淵の上に足場を掛けさせ、尾頭中書がその岩の上に三橋の詩四言四句を隷書で書く。また恩田仲任の記事を小字に書き、石工に彫らせた。凡そ一箇月余りで成就したという。

龍淵躍龍。龍今何遷。萬古蒼々。但有龍淵
三橋先生愛龍淵勝景。嘗謂廣居源備曰。不得題詩龍淵巖。余常憾之。無幾先生物故。至今二十餘年。廣居尾頭備追先生之志。就岩以八分書題詩。友人蓮樓逸老恩田仲任書其事云。文化十年龍次癸酉首夏八日

しかし、もともと磨かれていない自然の石の面に彫り付けたので、深淵を隔てゝ望むため、大字は鮮明だが、小字はたいへん読み取り難い。これは文人・書家の患わせるものである。道直が或る年、尾頭備の書一紙を得たが、龍淵の記事だったので、多年の恨み一時に晴れ、永く秘蔵していた。今、かの一紙によって記事を記す。この後、この地に遊ぶ雅人はこの書を携えて岩の上の記事に対照すれば、いささか補えるのではなかろうか。


その後、秦滄浪諸子とゝもにこの地に来て、文章を書く。形容をたいへんよく言い尽くしている。

夏秋の間、黒雲が東北の山に湧き起こり、にわか雨とともにやって来る度に、私が龍淵に飛ばないことは無かった。廣居山人がそのすばらしさを説き、

「赤津を出て二三里もない。青松白石。碧い水がさらさらと谷を流れる。流れに沿って進む。水は益々大きく山は益々深く。松も益々うっそうとし、石は益々奇妙になる。猛虎が山を率い、馬の群れが水を飲むようである。巨大な松をいただく。黄色の子牛が草を嚙んで行かず。巌が列なる様子は折れる屏風に似ている。絶壁数里、歩障(幕)のようである。突然、大きな巌が裂け、滝が雷鳴し、霧がたちこめ、生臭い雨が四方で降る。上には天狗の吼下には神龍の球あり。潜む者はその変化を測り難く、吼える者は形を見ることできず。これこそが龍淵の勝地である。先生も行って観てはいかがか。」

こうして丙子三月十七日、瀬戸から往く。奇景は步みに従って存在する。見るものは、聞いたものよりも勝る。皆、山人の説明が尽くされていかなかったと怨む。私は山人の口はあれほどだったのか。それならばどんなものか全形を見ずにいられようか。龍淵に至り、溪を隔てて高い嶺を仰ぐ。烟霧の中、かすかに二行八分の大字を見る。傍に小記も有り。不思議にこれを視ると、即ち山人の書であった。初め山人の師三橋翁は、在日常にこの地を愛す。字を険巌の上に彫ることを欲すすが、果さずに没す。山人がその遺志を継ぎ、恩田先生に請い記した。嗚呼山人の志石のようである。故に遂にこのようになった。事が朽ちないことは、誰が及ぶことができるだろうか。素晴らしいことである。深山は暮れやすい。既に瓢の酒は尽く。各々一詩を題して帰る。この日、山人及び釋寂蘊藤俊三兒壽焉に従う。唯、画工の玉溪生だけは、瀬戸で醉って諸子に従うことに同意せず。帰って責めて図を作らせる。かつてここで遊ぶ。腹に粉本有り。一掃して成る。その巖の字は別に搨本が有る。故に詳らかに載せず。  秦滄浪

尾頭備龍淵巖上ニ題スル詩ニ答フ 僧關尾

龍ノ德測ラレ不。世與推シ遷ル。昔ハ顯レテ空ニ騰リ 今ハ潛ンデ淵ヲ護ル。

(:龍の徳は人の知るところではない。世の推しは遷る。昔は現われて空に騰り、今は潜んで淵を護る。

尾頭備が龍淵の巖上に詩を彫付けたるを見て

千世經とも朽ちぬその名のたつが淵いはほに殘る水莖の跡 道直

参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

瀬戸市
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