源頼親五世の孫石川太郎光義(號澤田)の子に光治(號成田)がいた。承久合戦(1221)の勳功として美濃国市橋庄の地頭職を賜う。(『尊卑分脈』)市橋庄は厚見・池田両郡に在り。立政寺(厚見市橋)傳『石河系圖』光義の條に「石川太郎賜厚見郡澤田郷地頭職號澤田」と注し、その子二郎光治「承久功賜市橋地頭、地頭職」、三郎義季「市橋庄地頭職」とある。
義季の子孫は廣季-光貞-光長-光盛と継ぎ、その子に義熈(市橋庄總領職)貞義(市橋庄分領主)がおり、義熈の子孫は相続して鏡島附近を領したと伝えられる。これは旧尾州藩老石河男爵家の系である。
石河氏は石河光吉の代に豊臣秀吉に仕え、犬山城三万石の領主であり、さらに木曽二郡の代官として十二万石を管轄していた。しかし関ヶ原役(1600)で西軍に味方して敗れ、光吉は京都で出家した。
光吉の子・光忠は徳川義直の生母である相応院に養われていたため、その縁で慶長十三年(1608)に家康に召し出された。同十五年(1610)には美濃で九七八〇石余三三ヵ村を与えられた。慶長十七年(1612)に光忠の代で石河氏は尾張藩に附属した。光忠は名古屋に邸が与えられたが、在所は石津郡一之瀬村(上石津町一ノ瀬)に置いた。大阪の役で戦功をあげたが、寛永五年(1628)に三五歳で没した。
あとを継いだ正光は、慶安五年(1652)尾張藩家老となり、その子孫は代々この重職を務めて明治維新に及んだ。なお正光は在所の一之瀬が名古屋から遠く不便であったため、中島郡駒塚村(現羽島市)に移った。
参考
『養老町史 通史編 上巻』(養老町、昭和五十三年)173頁
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)423頁