慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦で島津勢は敗れた。
島津義弘の今一度大軍に突切り討死との決意に対し、島津豊久は「ゴ難題ノ節、御身代リ二廻リ申スベシ」との決意を固めた。義弘は豊久の父の家久の兄にあたり、豊久は若くして父を亡くし、義弘の庇護下で育てられた。
島津の残兵百名余は、密集戦隊となり、馬章を折り、旗印を捨て、敵中突破を敢行。豊久奮迅、義弘の退口を切分け進撃する。二男又三郎は戦傷して、後に戦死。鳥頭坂口で激戦、東軍の追撃を受けつつ牧田まで至り、長寿院阿多盛淳は義弘の身代わりとなって討死した。
義弘・豊久は伊勢街道を南下して多良郷柏原に至るが、豊久は戦傷で没っしてしまう。義弘は時山越えで江州五僧・保月越を経、多賀・高宮犬上川原着の経路をとったと思われる。
瑠璃光寺に、豊久の菩提所と荼毘所(墓)がある。
参考『上石津町史 通史編』(上石津町、昭和五十四年)159、160頁