藤島村にある。天台宗、野田密藏院の末寺。藤島山と号す。土御門帝の御宇、建永元年(1206)の創建、戒深法師開基の霊刹であるが、累年の兵乱に衰微に及び、堂宇も廃し、什宝も他所に散亡した。元亀元庚午年(1570)戒藏院豪賢が中興し、やや旧観に復した。中島郡苅安賀村國照寺に当寺の銅磬を所蔵する。その銘に、『藤島賢林寺勸進僧公朝。天福二年(1234)甲午二月十五日』と彫り付けてある。いつの頃からかの寺に蔵したのか、今は知りがたい。『元亨釋書』に、
釋戒深尾州賢林寺住侶也。五十年餘不出ヲ寺門。日夜讀法華。又感求舍利。一日庭上現舍利。有音如雷。色明白。深試以鐵鎚撃鐵砧上。倶陷而不碎。又投水。不沉。深歡喜供養。刻佛像。安其中。命終時向此像端坐。結印稱阿彌陀而寂。數日後身不爛壞。趺坐儼然。州人哀惜。建廟閟之
(:釋戒深は尾州賢林寺の僧で、五十年余り寺門を出ず日夜法華を読む。また舍利(釈迦の遺骨)を感求した。ある日、雷のような音があり、庭の上に舍利が現れ、色は明るい白だった。鐵鎚で鐵砧上に撃ってみて碎けず。また水に投じても沈まず。歓喜して供養して仏像を刻み、その胎内に安置した。命が終わる時、この像に向かって端坐し。印を結び阿彌陀を稱して亡くなる。数日の後、身は乱壊せず、趺坐の姿が保たれていた。人々は哀惜し、廟を建ててこれを閟す(隠した)。
と見え、『本朝高僧傳』にもこの人の伝承を載せる。
本尊 十一面観音は聖徳太子の作で、霊仏である。当国三十三所の一つで、参詣が多い。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)