水源は野洲川からの流れを三上村から分けて東北に流れ、富波村の西で二派に分かれ、東妓王井川は屋棟川の底を通して永原村北村に流れ、西妓王井川と合流する。
往古、近衛天皇の世(1142-1155)に江部荘司橘時長という者があり、院の北面士となり保元の役(1058)で死ぬ。その妻は二女(娘)を携え故鄕の北村に帰り、二女は成長して並に姿・色、人に勝れるようになった。この地はもとより水利乏く、土民は長年苦しんできた。母は二女を携え京師に入り、大相國・平淸盛に謁見し水利を通すよう乞う。もしこれを許されたら後世の為、民利を遺しこれ以上に大きなものはないと、二女と共に清盛に謁見する。淸盛は一目でその娘を寵愛し妾とした。妓王という女がこれである。清盛が欲しいものを問うと妓王は鄕里のため水利を開いて欲しいと乞う。
清盛はこれを承諾し承安三年(1073)三月十五日に妹尾兼康に命じて野洲川の水を曳いて水路を通させた。その工程は順調でなかったが、一童がこれを助けて間もなく完成した。故にこの川の上を「妓王川」といい、下を「童子川」という。
この頃、京中第一の白拍子、姉祇王・妹祇女といい紅顏色鮮やかに白粉の媚を造り、容貌端麗で蘭や麝の匂いが好ましい。清盛入道が舞い歌えと宣じると、蓬莱山の千歳ふる万代千秋(永遠に)重なる松の枝には鶴が巣を作り、岩の上には亀が遊ぶと同音に謠じければ、入道は興に入り姉・祇王を殿中に召して最愛した。寵愛の余の親は如何なる者かと問うと、母は元と遊女で刀自(年配女性)と言けるか、年老いて六條堀川という所にいると言えば、さては惜しむ可きこととして、筑後守家貞に仰せて衣裳絹布の類を送り遣わすのみならず、毎月二度の料や雜事を運ばせた。こうして家は大いに栄えて、従類・旧族集い来る。色立てるものは、どれほどの幸があるべきと祇一・祇二・祇三など名付けるものもあった。
ここに佛御前と云う者がいた。六波羅の亭に推參す清盛罷り出よとて入る紙王・紙女吾も経し道なりと進むと、佛を呼び入る清盛、佛の朗詠歌舞するを見聞き感に堪えず、入道座を立って判官を使いとし、祇王を追出した。祇王は力なく入道が常に見ている障子に
萌出るも枯るヽも同し野邊の草いつれか秋にあはであるべき
と書き捨てて出て行った。その後、佛を慰めに来て舞に出よと責められ、母の諫言に心を留めず、また六波羅に来て歌舞した。宿所に帰り、母に言うには
浮世にあれはこそかヽる憂目も見れはかなき此世と知りなから何を頼みて住らん蜻蛉の有か無かの身を以て朝露の置けは消ける命なり
と僧を請じて翠の髪を剃り落し、墨衣に袖を替えて二十一歳で仏の道に入った。妹・祇女も十九で出家した。母・刀自は言うまでもなく尼となり、嵯峨の奧往生院という所に柴の菴を結びつつ、三人菩提を祈った。佛もこれを聞き六波羅を忍び出て、往生院へ尋ね来て、共に墨染の袖となり、浮世のはかなきを思い、四人頭を剃り、明暮念仏し行を重ねた。遲速はあれども本意に任せ心を乱さず終へけり。
後白河法皇はこの由を聞き、哀れ貴きこととして、六條長講堂の過去帳に「比丘尼祇王廿一祇女十九、閉四十七佛十七」と記された。
参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)