三世紀後半から五世紀にかけて、大和朝廷がそれぞれの地方を制圧した時に順次、直轄地の県が設置された。前方後円墳や円墳のうちの一部は県主によって築かれた。
近隣の加茂郡富加町羽生に、大宝二年(702)御野国加毛(かも)郡半布(はにゅう)里戸籍には、県造、県主、県主族という氏の名を持つ人々が記されている。
縣主神社は、以前、加茂県主神社と呼ばれていた(野村忠夫『古代の美濃』)。『延喜式』に「県主神社」、『美濃国神名帳』に「従三位県主大神」と記される神社とみられており、それぞれで賀茂郡の最初に記され位階も高いことから、加茂郡の中心勢力の神社であったとみられる。縣主神社の祭神は彦坐王(ひこいます)とされるが、それは『新撰姓氏録』の「鴨県主 治田連同祖、彦坐王之後也」と一致する。
これらのことから、縣主神社を中心とする地域に、カモ県主が存在したことが分かる。
なお、カモ県主の初源地は木曽川対岸の可児とされる。野村忠夫『古代の美濃』によれば弥生時代の勢力を伺わせる久々利銅鐸の出土や、『日本書紀』景行四年二月条に載せる泳宮伝承の舞台でもあることから、初源地は可児で、美濃加茂・富加方面は次の段階であったと推測される。
参考
七宗町教育委員会、七宗町史編纂委員会『七宗町史 通史編』(七宗町、平成5年)119頁