大正六年七月十日に富士並権神社(木花佐久夜毘賣命)、地福神社(豊受姫命)、五穀神社(豊受姫命)の三社を合祀した。

富士並兼神社と中嶋家 越前逃亡

富士並権神社は、東横山の東北にある富士並山(別名今権現山)で木地挽を業としていた永正年中(1375か1378)の頃からある。当社は明治初年まで東横山村の庄屋をつとめていた中嶋家の氏神である。

中嶋家の『遠祖以来由緒記』(安政年間)によると、永正二年(1505)生の小倉荘蔵義英という人物の先祖は、近江の愛智郡小倉荘から移住し、富士並山で木地屋を営み、のち下山して東横山村に定着して農民となったそうだ。義英は農業のかたわら製茶も営み、美濃国守護土岐頼芸の城下町山県郡大桑で行商した。そこで頼芸家臣中島監物と繋がり、監物の六歳の子の虎吉を預かった。

斉藤氏と土岐氏の戦いで大桑城が陥落すると、土岐頼芸は山本和馬の在所大野郡岐礼に落ちるが、敵地に近く危険なため越前朝倉義景を頼って逃避することになる。『岐阜県史中世通史編』は揖斐谷を遡り冠・桧尾・高倉を、『美濃国諸日記』は根尾谷を遡り温見・蠅帽子からと、行路は諸説ある。『由緒記』によると中島監物が案内して、揖斐川、横山、徳山を通り、越前へ向かった。以下由緒記の漢文より(『藤巻村史上巻』)
七人が相談して賊軍はすでに退いたが、主君が生きていて朝倉家を頼ると知ったら、追撃の兵を根尾谷に入れるであろうから、北山谷にその難を避けるのがよいであろうとして、翌未明岐礼村を出発して北山谷に入り、横山村に泊った。翌日義英宅を辞して村人某を案内者として広瀬・川上の二村を経て、徳山郷に入り支族某の第に暫く身をやすめて後、某の家来を嚮導者(きょうどうしゃ-案内役)として濃越両州界の冠嶺を越えて一乗谷の朝倉居館に達した。
揖斐谷の横山には中島監物の知人の小倉義英が、徳山には土岐氏の養子を迎えた徳山氏がおり、安全な路であった。

天正十年(1577)頼芸は死去し、中島監物は横山村に移り小倉義英家を頼り、勝善寺の僧園了のもと念仏者となり天正十三年(1585)死んだ。虎吉は藤左衛門政辰と改名し、義英の養子となって小倉家を継ぐも、武家姓の中嶋に名字を変え、東横山村の村長(むらおき)となった。そして明治初年まで庄屋を務めた。七世政恭(延享-文政)の時には名字帯刀を許された。

八幡神社

富士並兼神社の後、東横山の氏神である八幡神社が建立された。祭神は應神(おうじん)天皇。『由緒記』によると、近世の東横山領主石河氏二男が八幡大菩薩を信仰し菩薩像を作り、村長中嶋政映(四代目、慶長七年1602生)に奉祀するよう命じ、社を建て一村の正総社とした。石河氏は八幡を氏神とする清和源氏の末流である。

参考:藤巻村史編集委員会『藤巻村史上巻』(藤巻村、昭和五七年)103-105、110頁

揖斐郡揖斐川町東横山
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