多数の古墳が集積する。

古墳の一覧

位置関係

位置・字名

種類

規模(m)

備考

起点

豊木村 野字南出口の田圃の間

前方後円墳(西向)

後円直径50.9/高さ7.6/前方長41.8

「城塚」と称す。明治初年(1868)発掘。四靈三瑞鏡(径20.3)、鍍金鞍馬具ほか副葬品

↑の北

字南屋敷西

前方後円墳(西南向)

後円直径50.9/高さ7.0/前方長29.1

埴輪円筒

↑の西

字登越

前方後円墳(南向)

後円直径54.5/高さ8.5/前方長36.4

埴輪円筒

(南屋敷の)東北

字乾屋敷

前方後円墳(西南向)

後円直径49.1/高さ7.0/前方長30.9

後円部に埴輪円筒、塚の項部に不動庵

(南屋敷西の前方後円墳の)北

南屋敷西の前方後円墳の北

円墳5基

直径18.2/高さ4.5

↑の西

登越の七字モタレ

円墳

直径36.4/高さ6.1

埴輪円筒

↑のさらに西

字木ノ下

小墳1基

また(木ノ下の北)

字室塚山の丘上

石室(南向)

↑の西

字瀧谷戸樋東から瀧谷山にかけての山腹平地上

古墳群30基

最大:直径16.4/高さ4.5

石室の口が開くものあり

↑の西南

字堂ヶ洞の山上山麓

古墳群18基

最大:直径12.7/高さ6.1

皆石室を有する

↑の西

字物干山の半腹山麓

古墳群約20基

最大:直径14.5

↑の西

三ケ原の山林中

古墳数基

大きな石室があったが、明治二十四年(1891)の濃尾地震で崩れた

↑の北

字ビシヤシヤキ洞の山中

古墳

(三ケ原の)南

字脛ヶ洞の山上

石室(南向)

室:長5.5/幅1.2/奥壁高さ1.8

(山の)南麓

字カイトの山腹・山麓

古墳18基

一基:直径10.9/高さ2.1

一基は石室口を開く。二室構造石室(羨道幅0.9・長3.0/玄室幅1.7・奥行4.2・高さ1.8)

↑の西

字袖ノ木

墳3基(円墳相当)

↑の南

字大平山の麓

円墳

直径9.1/高さ3.0

↑の南

字山崎

円墳

直径9.1

↑の西北

字ソハマの山腹

古墳5基(崩れている)

豊木村野字南出口の田圃の間に、西向きの前方後円墳があり「城塚」と称す。後円直径約50.9m/高さ約7.6m/前方長約41.8m。明治初年(1868)に発掘され、四靈三瑞鏡(径約20.3m)の他に鍍金の鞍馬具などの副葬品が出土した。

その北、字南屋敷西にも西南に向く前方後円墳があり、後円径約50.9m/高さ約7m、前方長約29.1mで、埴輪円筒を備える。

その西、字登越にも南向きの前方後円墳があり、後円径約54.5m/高さ約8.5m/前方長約36.4mで、埴輪円筒がある。

南屋敷の東北の字乾屋敷にも前方後円墳があり、後円直径約49.1m/高さ約7m/前方長約30.9m西南に向く、後円部には埴輪円筒があり、塚の項部に不動庵がある。

南屋敷西の前方後円墳の北には五基の円墳があり、いずれも封土は径約18.2m/高さ約4.5m。その西、登越の七字モタレに、径約36.4m/高さ約6.1mの塚があり、埴輪円筒を有す。さらに西の字木ノ下にも小墳が一基ある。

また字室塚山の丘上に南向石室があり。字瀧谷戸樋東から瀧谷山にかけての山腹平地上に三十の古墳群があり、大きいものは径約16.4m/高さ約4.5mで、石室の口が開いているものもある。

瀧谷戸樋東の西南、字堂ヶ洞の山上山麓にも十八の古墳群があり、大きいものは径約12.7m/高さ約6.1mで皆石室を有する。その西の字物干山の半腹山麓にも二十基程の群があり、大きいものは径約14.5mの封土を有す。

さらに西、三ケ原の山林中にも数基の古墳があり、大きな石室が備えていたが明治二十四年(1891)の濃尾地震で崩れた。その北の字ビシヤシヤキ洞の山中にも古墳がある。

次に三ケ原の南字脛ヶ洞の山上に南向きの石室があり、室の長さ約5.5m/幅約1.2m/奥壁高さ約1.8m。山の南麓の字カイトの山腹・山麓にも十八基の古墳があり、一基は石室口を開く。この塚は径約10.9m/高さ約2.1mで、石室は二室に分かれ、羨道は幅約0.9m/長さ約3m、玄室は幅約1.7m/奥行約4.2m/高さ約1.8m。

その西の字袖ノ木にも三基の墳があり、さらに南の字大平山の麓にも径約9.1m/高さ約3mの円墳がある。またその南の字山崎にも径約9.1mの円墳がある。その西北の字ソハマの山腹にも五基の古墳があるが崩れている。

参考:『揖斐郡志』(揖斐郡敎育會、大正十三年-1924)801、802頁

揖斐郡大野町
種別