竹中氏は、江戸時代には旗本として、幕府の交代寄合に列し、多良の高木氏とともに美濃衆に属していた。陣屋は、東面二面に濠をめぐらし、石垣・土塁などを設け、家臣杉山内蔵助の門を移建して正門としたといわれる。門前には家臣の邸宅が並んでいた。
竹中氏は、美濃守護土岐氏、ついで斉藤氏に属していた。永禄元年(1558)、竹中遠江守重元と子半兵衛重治は岩手氏を攻略し、岩手付近一帯六千貫の地を領した。永禄七年(1564)には斎藤龍興に謀叛して近江浅井氏をたよった。
その後、竹中氏は織田・豊臣両氏につかえ、参謀役を務めた。天正七年(1579)重元が三木の陣中で没すると、子重門が天正十六年(1588)家督をついだ。翌年十一月、秀吉から領地五千石の朱印状を与えられる。天正十八年(1590)には秀吉の小田原征伐に従軍し、文禄元年(1592)朝鮮出兵で肥前名護屋で出仕。文禄三年(1594)、河内国大方郡畑村および安宿部郡玉手村において千石を加増された。
慶長五年(1600)関ヶ原役では、稲葉貞通・加藤貞泰とともに西軍の犬山城主石川貞清を援助するため犬山城にいたが、西軍に属する意思は無く、八月下旬に貞泰と共に家康に内通した。合戦当日の九月十五日には、黒田長政と共に東軍の右縦隊先鋒として、西軍石田三成の左側面を突いた。翌日、関ヶ原の禪僧が伊吹山の東春日谷まで逃れていた西軍小西行長(肥後宇土城主)を捕え、家老伊藤治右衛門(半右衛門)が家康の陣に送らせたことで、家康より感状を受けている。
慶長十二年(1609)駿府で勤仕した。その後、名古屋城普請では木曽山材の伐り出しを奉行し、家康・秀忠から慰労の御内書を受けたほか、大阪両度の陣で戦功を立てている。
慶長年間には、不破郡の岩手村・関ヶ原村・玉村・藤下村・山中村・の五ヵ村・五千石を領していた。
竹中重門は儒者林羅山に師事して『豊潤』・『時雨之記』等を著した。寛永八年(1631)、江戸の屋敷で没し、衣冠刀剣を装って江戸芝高輪の泉岳寺に葬られた。
重固は分家竹中彦八郎の子として生まれ、万延元年(1860)七月養子となり、文久元年(1861)三月家督を継いだ。
元治元年(1864)十月、陸軍奉行に任ぜられ第一次長州征伐とその後の長州再征に参加した。慶応三年(1867)十月には将軍慶喜の上洛に陸軍奉行として随行した。翌年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは旧幕軍の陸軍奉行として部隊を指揮したが敗れ、慶喜とともに海路江戸へのがれた。ついで、東北へ、最終的に榎本武揚の軍に加わり蝦夷地に入った。
同年二月、旧幕軍の敗北で領地五千石を没収され、父重明には隠居料として五百石が与えられた。明治二年(1869)五月、重固は大垣署へ自首し、福岡藩で永錮となった。特旨によって家は存録し、父重明には三百石が与えられた。明治四年(1871)三月、重固は竹中家に幽閉され、翌五年(1872)正月、特旨によって罪を赦された。
参考
『関ヶ原町史 通史編下巻』(関ヶ原町、平成5年)9-17頁