津島は津島午頭天王社の門前町、天王川を通じた港町として栄えていた。鎌倉時代の海岸線はここまで来ていた。『海道記』貞応二年(1222)四月条によれば、舟で市腋(いちえ-佐屋町市江)から津島まで行き、尾張の国に着いたそうだ。
七日、市腋を立ちて津島の渡といふ所を舟にて下れば、葦(あし)の若葉あをみわたりて、つながぬ駒も立ちなはれず、菱の浮葉に浪はかくれども、難面(つれなき)かはずはさわぐけもなし。とりこすさをの雫、袖にかかりたれば、さしてものを思ふとなしに水馴棹み馴れぬ浪に袖は濡しつつ渡りはつれば、尾張の国に移りぬ。片岡には朝陽の影うちにさして、焼野の草に雉(きじ)なきあがり、小篠が原に駒あれて、泥みけしき引きかへて見ゆ。
西行法師(1118-90)
つしまより棹さしくれはなかふなる、かい河過て和泉野の原
鴨長明(1155-1216)
伊勢人はひかことしけり、津島より甲斐川ゆけは泉野の原
とあり、甲斐川は香取渡(多度町香取-桑名の西隣)の川名で、現在の多度川-香取川、揖斐川の総称で、「和泉野の原」は桑名城南の町屋川左岸の和泉である。

信長の曾祖父は中島郡内に力を持ち、祖父信貞が大永年中(1521-28)に港町津島に進攻して領有化した。大永4年には信貞の娘を津島衆の大橋氏に嫁すことで和睦し次第に領有化していった。父信秀に至って津島衆を支配下に置き、守護代を凌駕する力を蓄え、尾張の旗頭的な地位まで登りつめた。

四家七党とよばれた津島衆がおり、豊かな経済力を背景に勢力を誇っていた。のちの江戸幕府で大老職にまで登りつめた堀田正俊も津島衆の系譜である。桶狭間の戦いで義元に鑓(やり)を付けた服部小平太一忠、美濃攻めで長井衛安を討ち取った服部康信、同じく日比野清真を討ち取った恒川(恒河)長政、神戸甚助を討ち取った河村将昌らはいずれも津島衆である。信長時代も初期には津島衆が中心として活躍した。

四家とは、大橋・岡本・山川・恒川の四姓をいい、七党とは堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の七姓をいう。その系譜は、後醍醐天皇の孫尹良(ゆきよし)親王を奉じて吉野から転戦したが親王が信濃で討死したため、遺児の良王の供をして津島に移り住んだ者の子孫という。

滝川一益、のち福島正則に仕えた大橋重賢(しげかた)(茂右衛門)も津島の大橋氏である。重賢は正則没落後、同じ津島衆の平野長泰(賤ヶ岳七本鑓の一人)を通じて松江藩松平家に仕え、家老にまで出世した。信長の初期の有力武将森可成の母も大橋氏という。

津島市史編さん委員会『津島市史』(津島市教育委員会、昭和五十年)

和田裕弘『織田信長の家臣団』(中公新書、2017)13-



津島市片町丁目
種別