土岐二代頼遠は足利尊氏に従い軍功をたて、「土岐絶えばあしかがたゆべし」というほどだった。しかし、康永元年(興国三年-1342)九月六日夜、京都東洞院通りの五条辺りで光厳上皇の行列に行き会い乱暴狼藉を働き、十二月一日に斬首された。手力雄神社の宝篋印塔が頼遠の墓だといわれている。

土岐頼遠・二階堂行春らは今比叡(新日吉神社)の馬場で笠懸に興じ、そのあと大酒に時を過ごし夜更けて帰る途中、東洞院の辻で光厳上皇の御幸に出会った。このとき上皇も故伏見院の二六回忌の法事に出られての帰りであった。通り過ぎようとする頼遠らの一行に対して、行列の従者が走り出て「何者だ。無礼なり、下馬せよ」と告げると、行春は御幸と心得て馬を下りて路端にかしこまった。一方の頼遠は、このころ時を得て心のままに振るあっていたので、「この頃、京都で頼遠に向かって下馬を命ずる者に覚えがない。そをいうは何んという馬鹿者だ」と言い返した。そこへ警固の騎馬武者がかけ寄り「そのような狼藉なるふるまい、何たる田舎者、院の御幸にてあるぞ」とののしった。

これを聞いて頼遠はカラカラと笑い「なに院というか、犬というか、犬ならば射り落さん」というままに、郎党たちと上皇の御車を真ん中に取り囲み矢を射かけた。そのため牛の引き綱は切れ、牛車の首木も折れ、牛追い共もちりぢりに逃げ去ってしまった。供奉の公卿・殿上人も馬から落とされ、簾のちぎれた御車が路上に転倒するという一大不祥事に発展した。

そのころ尊氏に代わってその弟・直義が政務を担当していたが、この話を伝え聞いて大いに驚き、頼遠・行春を罰せんとして召出した。こうなってはかなわぬと察して二人は本国へ逃げ去ったが、やがて討手が下されると知り行春は覚悟を決めて上洛し弁明したところ、糺明のうえ死を免れて讃岐国へ流された。頼遠は、とても罪を逃れることができぬので、美濃国で一族を集めて謀反を準備しようとしたが、幕府も土岐一族の頼康らに追討を命じたので、ついに断念してひそかに上京して臨川寺の夢窓国師に助命を頼んだ。しかし国師の口添えも功をなさず、ついに十二月一日六条河原で首をはねられた。所領は従来通りに安堵された。

参考:『多治見市史 通史編 上』(多治見市、昭和五五年)290、291頁

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