今浜城と京極氏の支配

初め今浜城と称し、京極道誉の武将・今浜氏が居城して警備に当たった。永正・文亀の頃(1501-1521)、京極高清が入城し、重臣・上坂治部太夫が守った。浅井亮政が小谷山に城を築き、京極氏に代わって江北に勢力を伸ばすと今浜城は廃墟になった。

太閤秀吉の城の持初

天正元年(1573)に浅井氏が滅び、秀吉が江北に封ぜられ、翌年古城址に小谷城を移し長浜へ改めた。水運の便がよく、水軍を擁した水城の構造となっていた。李由の『湖北賦』に「今浜の城は太閤秀吉の城の持初」と見えるのは、秀吉が発祥または創業の地であることによる。秀吉が各地に転戦している間は、子の秀勝が城代を務めた。

本能寺後の混乱と柴田勝家の支配

天正十年(1582)六月の本能寺の変に乗じて京極高次が阿閉貞大と謀り一時入城したが、光秀がすぐに亡ぼされ、高次等は退去した。秀吉が帰城した後、清州会議があり柴田勝家は南出の計があり、当城を強く望み秀吉は与えた。勝家は甥の勝豊に守らせたが、やがて秀吉は勝家を降し城を回復した。

一豊・三成・内藤氏による変遷と廃城

天正十三年(1585)十一月、秀吉は山内一豊を城主として二万石を封じた。一豊は六年居城した後、遠州掛川に移り代官が置かれた。

文禄年中(1592-95)、石田三成が佐和山に封ぜられると、当城の天守は移築され一時城勢を失ったが、関ヶ原役(1600)後の慶長十一年(1606)に内藤信成が封ぜられ、城は再び湖涯に聳えた。この時、近江・美濃・飛騨三国の役夫を動員して築城工事を行わせた。

元和元年(1615)に信成の子・信正は摂津高槻に移され、井伊直孝が旧地を加増された後、彦根山築城の際に、当城の天守、櫓門、石垣等は同城へ移され、以後全く廃墟となった。長浜大通寺の裏門は当城門を移したものである。現在、豊公園の一小岡に残る古株一株は当時の天守台の跡とを伝える。

参考:中川泉三・中澤成晃・北川貢造・北村哲雄『近江長濱町志 第三巻 本編下』(片岡英三、昭和六十三年)552、553頁

長浜市
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