明治二四年(1891)の濃尾地震で根尾の殆どの山は裸山に一変させた。明治三十年(1897)七月になって金原明善翁は湯本岐阜県知事の要請を受け、県内の水源地を実地調査した。山林の崩壊、土砂流出の跡は想像以上で、そぞろ一行の毛髪を逆立たせるばかりだったという。

明善翁は災害現場の写真を十五枚(根尾谷五枚)撮り、二十日余の実地調査を終えたのち大垣の金森邸に逗留した。「何と言ってもあの山岳の状態では寸時も捨てておけないが、普通の状態ではこの救済の目的を達することは出来ない」と結論づけた。その頃、明治天皇が京都への行幸を知り、宮内大臣・土方正義に陳情し惨状の写真を天覧に供した。明治天皇は東京へ還幸の際、岐阜駅で湯本知事を召して「岐阜県の山林崩壊甚しき趣、適当に処理する様に」と内勅を下した。湯本知事は直ちに、一、杉・桧の樹苗を育成し無償配布、二、公私林の植樹に造林補助金を交付、という案をたて莫大な予算を計上したが県議会は否決した。知事と明善翁は主務大臣と大蔵大臣を動かし、遂に原案の実施が断行された。

明善翁は、まず村民の造林意欲を高めることが重要だと考え、自費で食事や茶菓子をふるまって人々を集め、各区を巡回して造林の必要性と有利性を説いた。当時の根尾村は水田が少なく、山を開墾して粟や稗を作っていたので、植林の収益で川下の平地の水田を購入するよう勧めた。やがて村民は競って植樹するようになり、谷も次第に緑に変り大正五年(1916)には第一回植林品評会が開かれるまでになった。

西根尾村の村長・村瀬清直は明善翁と昵懇の仲で、翁が来村すると必ず村瀬家に寄ったという。当時八歳の長女・美子が接待役を務め、翁が腹ばいになって背中の上に登って踏んでくれと言われ、よく踏んであげたという。美子が十八歳の時には翁が「頭の上に登って踏んでくれ」と言い出し、村瀬氏が止めたが聞き入れず、美子は仕方なく頭に登って足で頭をもんであげたという。また翁は外を歩く時は袂に新聞紙を入れ、道に木炭のかけらが落ちていると全部拾って新聞紙に包んで持ち帰り、「お嬢さんお土産ですよ」と言って美子にくれたという。

昭和三年(1928)四月、本巣郡林友会の主唱で翁の頌徳碑が川原の氏神大明神前、桜橋の袂に建立された。碑の表には、農林大臣・山本悌二郎の書で「金原明善翁頌徳碑」、裏に従二位勲二等井上孝哉の詩文が刻まれている。その後、昭和四九年(1974)に淡墨桜の北側に桜公園が整備された際、記念碑も公園内へ移された。

参考:『根尾村史』(根尾村、昭和五十五年)352-356頁

本巣市