※詳細なゆかりの場所は不明。尾張旭市稲葉町におく。
稻葉村の人。『太閤記』に、毛受勝助は尾州春日井郡稻葉村の人で、柴田修理亮勝家に十二歲の頃から仕え、後に小性頭に任じられ一万石を領した。素性は信篤く、古風で、母に孝行あり。勝家が敗北した際、舍兄の茂左衞門尉らと共に忠死を潔くし、その名は最も高まった。すべて朋友に信愛篤く、貧士を憐れみ、旅人等に恵深くあったと記す。
『豐鑑』に、勝家は猶もとの陣所柳ケ瀬の村はづれに、軍の備をしていたが、先勢の玄蕃打ち負けるを見て、「なお一戦しなげれば」といい、毛受庄助という兵が、「軍兵落ち失せ、戦いなさっても勝つことは無い、敵に顔を晒すよりも城に帰り自害して、跡を隠しなされ、私が残り留って、御名を汚し討死すべきだ」と、しきりに諫めたので、じつにもとや思ったのだろう、馬をかえして落ち行きた。毛受は柴田のしるしの金箔を押した御幣を取って、先頭に立ち敵を待つ。木下美作守・小川土佐すすみ来れば、柴田勝家と名乗り、思いのまま戰ひ、小川の従者に討たれた。漢の紀信が榮陽で高祖に変わり、命を失い、我が国の佐藤忠信は義経の為に吉野に残り留まった。毛受の志もそれに同じだと、人は皆褒め称えた云々と見える。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)